滋賀県人の日記

書きたい事を書いていくだけのブログです。旅行の記録とか思い出とか。

【北陸4都駅物語】Vol.2 富山駅

富山駅JR西日本、あいの風とやま鉄道の管轄する駅である。北陸新幹線JR西日本が、在来線をあいの風とやま鉄道が管理している。また、高架下には富山地鉄市内線の路面電車の停留所がある。
 
かつて東京から富山へアクセスするには、上越新幹線で越後湯沢まで向かい、越後湯沢で特急はくたかに乗り換える必要があった。一方、特急サンダーバードが大阪まで直通運転を行なっており、この利便性から富山と大阪を移動する者も多かった。しかし、北陸新幹線が開業したことで状況は一変した。東京から新幹線で1本で結ばれるようになり、東京への利便性が一気に向上した。それと引き換えに、北陸新幹線が開業したことで並行在来線第三セクターへ移行、かつて特急街道とまで称されたほど特急列車が「東奔西走」していた北陸本線は、金沢以南にその名を残しこそしたものの、富山県内では完全に地域ローカル路線へと様変わりした。その結果、サンダーバードは金沢発着に変更され、大阪へ向かうには金沢駅で新幹線を乗り換える手間を強いられるようになった。

f:id:st_225_I:20200825182451j:plain

「富山行き」のサンダーバードが消滅してから5年が経過した(2013年撮影)
北陸新幹線が開業するまで、富山駅もまた、「特急街道」である北陸本線の重要なターミナルであり、サンダーバードはくたかだけでなく、北越や、寝台特急日本海トワイライトエクスプレスのような、日本海側の主要特急列車の停車駅でもあった。かつては富山地方鉄道線との連絡線があり、この連絡線を通じて681系が、「スーパー雷鳥」として富山地方鉄道線の宇奈月温泉立山駅まで直通運転を実施していた。利用客低迷や、地鉄側の設備容量不足から廃止されてしまったが、以前のJRは他社への直通運転や、臨時列車の運行にも積極的であった。現在は富山駅に681系が入線しなくなっただけでなく、駅の高架化により連絡線自体も撤去されたため、この列車の復活は幻のものとなった。
 
特急街道の主要駅として、北陸本線と共に栄えたかつての富山駅もまた、新潟駅と同様、国鉄の雰囲気を多く残す駅舎であった。現在も国鉄型駅舎が現役である新潟と違った点は、北陸新幹線の開業に合わせて、在来線を高架化し、線路を挟んで南北に分断されていた駅前を一体開発する計画をいち早く発表した点だろう。
 
2015年3月、北陸の住民が待ち望んだ北陸新幹線がついに開業すると、同年4月にはまず金沢方面のホームが高架化された。引き続き高架化が進められ、2019年には魚津方面の高架化も完了、これにより在来線の完全高架化が完了した。そして2020年3月、旧在来線の設備撤去と駅北口の整備が完了し、富山地方鉄道市内線と富山港線の直通運転が開始された。

f:id:st_225_I:20200825182628j:plain

北陸新幹線の開業により、富山駅は見違えるほど立派な駅となった
 
ちなみに、市内線と富山港線の直通運転開始に先立って、富山港線を運営していた富山ライトレール富山地方鉄道へと吸収合併された。実は、富山港線は戦時買収によって1943年に国営化されるまで富山地方鉄道によって運営されていた。つまり、富山港線富山地鉄国鉄JR西日本→(数ヶ月の廃止期間)→富山ライトレールといった変遷で、廃線の危機をも乗り越えて、実に77年ぶりに富山地鉄の運営に戻ったのである。
 
私が初めて富山駅に降り立ったのは2013年3月、当時は北陸新幹線の工事真っ盛りであり、新駅舎用地ではまだ更地が目立つ時期であった。現在の富山駅よりもやや西側に設けられていた当時の仮設駅舎は、現在の立派な駅舎からは想像もつかないほどの質素さで(仮設なので当然ではあるが)、こぢんまりとした駅前広場にもまた驚いたものである。改札内もまた工事が進んでおり、南口から入ると、工事の防音柵に囲まれた長い通路を歩いてようやく在来線ホームにたどり着くような形であった。あの工事柵で覆われた長い通路は、現在の新幹線ホーム下にあたるのだろうか。この時富山市の計画を知らず、富山市を訪れたことすらなかった私にとって、防音柵に囲われたあの薄暗い通路を歩きながら、新しく生まれ変わる富山駅の全貌を想像できる訳もなかった。

f:id:st_225_I:20200825182759j:plain

地上ホームで発車を待つ高山線猪谷行き(2013年撮影)

写真左側の防音柵の向こうでは、北陸新幹線と在来線の高架ホームの建設が進められていた

2016年、富山を再訪する機会があった。駅に降り立って驚いた。いや、駅前に立って驚いたというべきであろうか。大きなガラス張りの駅舎を構え、バスターミナルの横を路面電車が発着していく光景は、3年前に見た時に感じた「質素」という印象とは大きく異なるものであった。それは鉄道ファンや都市工学に異様に詳しい識者たちが自分たちの理想の都市世界を語った時に出てくるような、理想世界そのものであったのだ。
 
地方都市の衰退が叫ばれる現代、富山市モータリゼーションを前提とするまちづくりからいち早く脱却し、一足早く公共交通機関の整備に取り組んだ。そして市内路面電車の整備、新幹線開業という追い風に上手く乗って、富山駅は誰もが望んでいた地方都市のあり方そのものに大きく生まれ変わった。富山の成功例は、新幹線開業という運要素に恵まれたのも事実であるが、当時の富山市の鋭い先見の明によるものであるのもまた事実である。富山市の業績は、ほぼ同時期に、岐阜市が逆のことー「路面電車の全線廃止」ーを断行していたことを考えれば、決して大袈裟であるとは言えない。
 
同様に新幹線開業を見越して駅前整備を行った金沢と違う点は、金沢が兼六園21世紀美術館のような観光地を市内に擁しているのに対し、富山県の有名観光地は立山、黒部のような郊外にあり、富山市自体は観光都市ではない、という点である。金沢市のように観光に依存せず、そもそも金沢市と経済規模が大きく異なる富山市とを並べて語るのはナンセンスである。富山市は観光産業に頼ることなく、自らが元々持ち合わせていた交通インフラを遺憾無く発揮するような政策を立案し、そして見事実行して見せたのだ。
 
富山市が総力を挙げて行ったコンパクトシティ政策が、路面電車環状線化に繋がり、結果として富山市中心部のアクセス向上をもたらした。北陸新幹線工事着工から早20年、近年スタンダードになりつつあるまちづくり方針をいち早く実践した、富山市の「元祖まちづくり計画」のシナリオは、現在フィナーレを迎えつつある。

f:id:st_225_I:20200825202941j:plain

新幹線駅の高架下から出発する路面電車

「近未来の地方都市」を思わせる光景である

 
富山駅のガラス張りのあの駅舎が、心無しか立派に見えるのは、新たな地方都市の交通のあり方を、身を以て示した富山市の意地の現れであろうか。