滋賀県人の日記

書きたい事を書いていくだけのブログです。旅行の記録とか思い出とか。

失われた岐阜の鉄路 〜岐阜の路面電車は存続可能だったのか〜 vol.1

蘇った鉄路と廃れていった鉄路
2006年、富山で新たに生まれ変わった鉄道があった。富山〜岩瀬浜を結んでいたJR富山港線を引き継ぐ形で富山ライトレールが開業したのだ。収益が悪化し、JRから引導を渡されるはずだった鉄道線が一転新たな需要を生み出し、復活するまでの奇跡のシナリオに多くの関心が寄せられた。
富山で奇跡とも言える復活が起こった一方、同時期の岐阜では、長い歴史を持つ岐阜市路面電車が長い歴史に幕を下ろそうとしていた。富山では路面電車が再興している中、なぜ岐阜は路面電車の廃止という結論に至ったのか。蘇った鉄路と廃れていった鉄路。同じ時期に正反対の運命を辿ったこの二つの鉄路を分けたものは、一体何だったのだろうか。
 
 
変化していく岐阜の街
かつての岐阜は繊維業で発達した街であった。当時は名岐間のアクセスが現在ほど発達しておらず、岐阜市近郊に住む人々は誰もが岐阜市街地を目指した。柳ヶ瀬をはじめとする岐阜の市街地は通勤、買い物の人々で溢れかえり、活気に満ち溢れていた。そんな岐阜市内の足として、路面電車は重宝されてきた。
しかし1980年代に外国製品に押される形で岐阜市内での繊維業が衰退、合わせて国鉄の民営化により、名岐間のアクセスが改善されると、市民は名古屋市に流出し始め、岐阜市は次第に名古屋の衛星都市としての性格を帯び始める。さらには市の主要施設が郊外へ移転を始めたため、岐阜市街地をはじめとする岐阜市内の人口流動は完全に変容してしまった。市内の人口流動が大きく変容した中、市内の交通網を完全再編しようとする動きが出てくるのは当然と言える。

f:id:st_225_I:20201126003632j:plain

岐阜駅前のバスターミナルから出発する岐阜バス

駅前広場にはモ513が保存されている

 

悪循環に陥った岐阜の交通網
路面電車は道路の幅員が狭い所を走っている場合が多く、自動車社会である岐阜では交通渋滞の一因となって自動車交通に影響を与えていた。また路面電車が渋滞に巻き込まれる事によって定時性が低下、さらに道路の幅員が狭いため停留所の安全地帯が整備できず、路面電車の乗客と自動車との接触事故も発生するなど、路面電車の特性が生かし切れていなかった。
 
一方バス側も問題を抱えていた。ただでさえ広いとは言えない市街地道路の真ん中を路面電車が走っていることで走行可能な車線が減少、バスの定時性が低下していた。また事業者側にも問題があった。というのも、岐阜市内だけで岐阜バス名鉄バス岐阜市営バスの3社がひしめく「バス激戦区」であったのだ。さらに厄介な事に、バス事業者間の競争が激化した事で、各社とも赤字を計上しており、バス事業者共倒れの危機にあったのだ。このように、バス、路面電車それぞれに問題を抱えているだけでなく、両形態が互いに足を引っ張っている状態であった。岐阜市の交通網はこれまでにないほどの危機に陥っていた。
 
そんな中、2002年に岐阜市はオムニバスタウンに指定された。これはバスを市内における重要な交通手段として認め、該当する市内を運行するバス事業者にサービス向上のための補助金を5年間交付するというものである。これを機に岐阜市ではバス路線のサービス改善に取り組むことになる。
のちの話ではあるが路面電車廃止と同時に、岐阜市営バスが廃止、名鉄バスも岐阜地区から撤退し、両者の路線、設備は岐阜バスに引き継がれた。
 
路面電車を運行する名鉄側も現状を打開すべく、新型低床車両を導入しサービス向上を図ったが、収益向上には繋がらずやがて経営が困難になり、2003年1月には沿線自治体と廃止に向けた協議を開始する。岐阜市では1960年代の岐阜市議会において路面電車の廃止決議が採決された歴史があり、当時もこの採決は効力を有していた。しかしこの時の岐阜市路面電車存続の可能性を積極的に探っていた。
 
2003年、道路上に仮設の安全地帯を設置し軌道内を封鎖するなどして、路面電車の安全性、定時性を高め、路面電車の利用客増加を狙う社会実験が行われた。しかし主要道路を封鎖されたことで周辺道路の交通渋滞が悪化、自動車利用者から不評であり、本題である路面電車においても良い結果を出すことが出来なかった。ついに名鉄は2004年に廃止届を提出する。が、ここでも岐阜市は諦めず路線の存続を協議し続けた。いくつかの民間団体が支援検討を打診したものの、どれも沿線自治体の支援を前提とした再建案であった。実際、福井県における京福電鉄撤退からえちぜん鉄道設立の際も、沿線自治体からの資金投入がなされていたため、自治体の支援を要請するのは何ら変わったことではない。だが2004年3月、名鉄が廃止届を出したのとほとんど同じタイミングで、岐阜市内の産業廃棄物処理業社による違法処理問題が発覚。この時廃棄物撤去を市が負担せざるを得ず、結果的に市の財政状況が悪化、路面電車の支援がほとんど不可能な状態になってしまっていた。岐阜市長が存続断念を宣言したのは、廃止まであと8ヶ月の2004年7月末であった。

f:id:st_225_I:20201126004254j:plain

徹明町駅の出札案内所跡

 

存続断念が7月末にもつれ込んだため、代替交通機関の選定も遅れた。通常廃止6ヶ月前に選定されるべき代替交通機関事業者が、岐阜バスに決定したのは2004年12月のこと。廃線までわずか3ヶ月という時期であった。このわずか3ヶ月の間に、岐阜バスが運転手、バス車両の供出を完了できるはずもなく、2005年3月の廃止後もしばらくの間、必要な輸送量を確保できずに乗客の積み残しを発生させてしまう事態になった。

 

次の記事では路面電車の廃止によって明らかになった課題を整理してみたいと思う。

 
続く