滋賀県人の日記

書きたい事を書いていくだけのブログです。旅行の記録とか思い出とか。

【北陸4都駅舎物語】Vol.4 福井駅

福井駅に立つと、まず目に入るのは恐竜…そう、恐竜が駅にいる。福井県勝山市に恐竜博物館というものが存在しており、そのPRのためである。福井県では恐竜の化石が多く発掘されており、恐竜をアピールするため、2016年に西口の開発に合わせて動く恐竜のモニュメントを設置した。西口に恐竜像が設置されるより昔の2010年に筆者が福井を訪問した際、かつての東口にも旅行客の目を惹くものがあった。駅前に謎の高架橋がポツンと佇んでいたのである。その高架橋は並走する北陸本線えちぜん鉄道とも繋がっておらず、距離も短く、何にも使用されていなかった。高架橋の麓に置いてあった一つの看板がその高架橋の正体を明かしていた。そこには「北陸新幹線新駅」と書かれていた。
 
この高架は、2005年に在来線が高架化された際に、将来北陸新幹線が延伸される事を見越して、予めホーム部分のみを完成させて用地を確保したものである。北陸本線と並走するえちぜん鉄道も高架化が決定しており、2018年に新幹線の高架橋真横に自線の高架駅が完成するまで、新幹線の高架橋を仮駅として使用していた。
 
比較的最近に完成した近代的な駅舎とは対照的に、福井駅には最近まで自動改札機が設置されていなかった。2018年に福井駅を含む北陸本線交通系ICカードに対応したのに合わせて自動改札機が設置されたが、自動改札機が設置されたのはJR西日本管内の府県の中では一番最後であった。また、福井は2010年代まで国鉄型の列車が多く残っていたのも特徴である。その残っていた国鉄型も特徴的なものが多く、457系や581/583系を改造した419系などのように、かつて急行形として運用されてきたものが多かったのが特徴である。幼い頃、在来線で福井へ行った際、457系の古いボックスシートに座りながら、駅弁を食べた思い出がある。419系には中間車を先頭車化改造したものもあり、簡素で平らな先頭車のその顔から「食パン列車」とも呼ばれていた。高架の新しい福井駅のホームに、国鉄型の急行形列車が停まっている光景はまさに福井ならではであった。
 
そんな急行形列車であるが、急行形であるため、乗降扉が車両両端にしかなく、また扉自体も幅が狭いため、混雑時の乗降に時間がかかっていた。その問題点もあってか、日本各地で運用されていた急行形列車は比較的早期に引退していった。そんな中でも北陸本線ではしばらく現役であったが、北陸新幹線開業に伴う北陸本線金沢以北の第三セクター移管の際に新型車両の521系が増備され、現在は全て引退している。新幹線の開業は北陸の鉄道史にとって大きな転換点であった。
 
福井駅の新幹線駅舎は当初、3階建ての高架駅を建設し、2階に京福電鉄、3階に北陸新幹線のホームが設置される予定であった。しかし、3階建ての駅舎は景観的、予算的にも現実的ではなく、さらに計画決定時に京福電鉄の経営状況が悪化、廃線の検討がされている状況であった。工事認可を優先した結果、京福電鉄の駅を新幹線駅と分離させることで決着がついた。三国芦原線LRT化させ、駅西口の福井鉄道駅に乗り入れさせる案や、新幹線とえちぜん鉄道が単線で高架を共有するという案まで出たようだが、結果的に京福電鉄、現在のえちぜん鉄道の駅も独立して高架化させることになった。その結果西側を在来線、東側をえちぜん鉄道の高架に挟まれる形になり、土地の確保ができないことから、新幹線駅が島式1面2線の小規模な駅になってしまった。本来であればこの失態に対し、都市計画の甘さとして鋭い指摘を受けるところかもしれないが、当時は京福廃線の可能性が拭えなかった以上致し方のないことである。むしろ、一度廃線の危機に陥りながらも見事復活を遂げたえちぜん鉄道という存在が嬉しい誤算であったと捉えてもいいのではないだろうか。なぜなら福井市民は鉄道存続の危機に一丸となって取り組み、自らの手で復活させ、そして現在に至るまで地元の鉄路を支えてきたからだ。新幹線駅開発計画の失敗と引き換えに、福井は福井自身のために必要なものを得たのである。必要なもの、それは「福井市民は、鉄道の必要性を誰よりも理解している」ということであった。
 
2001年、利用客減少で危機的な経営状況にあった京福電鉄が、2度にわたる正面衝突事故で運行休止になり、そのまま廃止となった。その後バス代行が行われたが、鉄道利用客が一斉に自家用車利用に切り替えたため、沿線道路の渋滞が悪化し、かえってマイナスの効果をもたらした。後に「負の社会実験」と呼ばれ語り継がれる事になるこの経験を経て、沿線市民の間では鉄道の復活を望む声が次第に大きくなっていく。市民の鉄道復活に向けた活動が実り、2003年には自治体出資の第三セクターである「えちぜん鉄道」が設立され、一部を除く京福電鉄の路線を引き継いだ。その後もえちぜん鉄道自治体からの補助による安定した経営の下で、沿線住民の要望に沿った運営を進めた。一連の活動を経て鉄道の重要性を認識した沿線住民の理解もあって利用客も順調に増加した。2016年には福井鉄道福武線三国芦原線相互直通運転も始まり、えちぜん鉄道は地域の鉄道会社として現在も成長を続けている。
 
福井市民は、京福電鉄廃線の危機を乗り越え、故郷の鉄路を守ってきた。そんな故郷にもうすぐ新幹線がやってくる。実は福井にはもう一つ解決すべき課題がある。それは並行在来線JR北陸本線の存在である。北陸本線はかつてより「特急街道」と呼ばれるほど特急列車が多く走り、大阪と金沢を結ぶ特急サンダーバード福井県民にとって、東京、あるいは大阪に出かける上でなくてはならない足であり、実際北陸本線の収益の大多数を特急列車が占めている。そんな北陸本線沿線に新幹線が開業すれば、特急が担っていた遠距離輸送は新幹線が引き継ぎ、新幹線と並走する在来線はJRから自治体が運営する第三セクターに移管される。しかし新幹線は敦賀までであり、大阪から福井にアクセスする場合、このままでは敦賀駅にて乗り換えの必要が生じてしまう。この乗り換えによる利便性低下は、富山関西間でも見られており、今後の課題になっている。
さらに、JR北陸本線を継承する第三セクター鉄道会社が新たに設立された際、福井県福井鉄道えちぜん鉄道に加えて3社もの地方鉄道会社を抱える事になる。いずれかの会社の経営統合も視野に入れた検討がなされているが、各社とも運賃や社員の賃金に加え、路線自体が持つ性格も異なるため、容易に解決できる問題ではないのだ。
福井は新幹線の開業に向けてこれからも多くの課題に取り組んでいかなければならないのである。
 
例え他の都市に劣る1面2線の小さな島式ホームだとしても、福井市民は東京まで一本で続く鉄路を歓迎し、そして誇りに思う事だろう。鉄道の重要性を身を以て感じ、そして長く故郷の鉄路を守ってきたそのプライドがある限り、福井の駅は輝き続けるに違いない。

失われた岐阜の鉄路 〜岐阜の路面電車は存続可能だったのか〜 vol.2

 
岐阜市内線廃止がもたらした課題
ここで、岐阜市路面電車が廃止に至った要因、もしくは課題を整理していきたい。
 
・過度な自動車依存社会からの脱却
岐阜市の場合、まず自動車への過度な依存から脱却することから始めるべきであった。実際、2003年の社会実験においても、自家用車を利用していた市民からの不評が多く、社会実験で問われるべき路面電車のメリットを市民全員が共有できていなかった。この社会実験を行う際に、路面電車の駅周辺に駐車場を整備し、パークアンドライドを推進するなどして市街地への自家用車流入を抑制すべきであっただろう。
 
・路線採算性の評価基準
また、独立採算制の原則で、路線単体の採算性を計算するのではなく、バス、路面電車単独の場合、また両形態を遠近分離の形で併存させた場合など、様々なケースを検証していくべきであった。後述するが、2002年に岐阜市がオムニバスタウンに指定され、バス中心の交通システム構築に拍車がかかったことも、このような路線採算性評価を公平に行うことを一層難しくしてしまったのではないだろうか。
 
・沿線自治体の意向
沿線市町村の足並みが整わなかったのもまた一つの要因として取り上げられるだろう。富山ライトレールの場合、富山市内で完結する路線であったため富山市が単独で対応していた。えちぜん鉄道の事例では、路線が複数の自治体にまたがってはいたものの、各自治体とも京福電鉄線に依存していたため、路線復活に向けた合意がスムーズであった。だが岐阜の場合、各自治体が岐阜市内へのアクセスをあまり重要視していなかった。先述のように、活動拠点はあくまで名古屋であり、各市町村とも、岐阜よりも名古屋方面のアクセスを優先した。この時沿線自治体は、名古屋方面のアクセス拡充のみに傾倒せず、岐阜市内への潜在需要などを予測し、市民の意向も踏まえて改めて交通網の再形成に力を入れるべきであった。(空洞化が進んでいた岐阜市に目を向けさせると言うのも、非現実的なことではあるが…。)また自治体ごとに財政状況も大きく異なるため、福井のように容易に存続合意に至らなかったのである。
いずれにせよ、この時岐阜で起こったことは、富山や福井が実現した新たな地方鉄道の経営モデルの欠点を浮き彫りにしたと言える。
 
・2002年のオムニバスタウン指定
2002年、岐阜市がオムニバスタウンに指定された事で、市内のバス事業者はサービス向上に向けた様々な施策を実行できるようになった。バスの利用促進を図るこの指定により、バス事業者にはメリットが多かった一方、競合していた路面電車にはこの指定が向かい風になった可能性がある。オムニバスタウンに指定されたのは、岐阜市側がバスだけで交通を維持していくと意思表明したようなものであり、結果として路線バスとの競合区間ではバスが優位に立ち、路面電車がより一層苦しい立場に置かれる事になった。本来は、市街地において路面電車とバスのどちらがメリットが大きいかを、社会実験等で検証した上で交通網の整理に着手すべきところを、バスタウンの指定によってバスありきの交通網が形成されてしまい、最も採算性、効率性のよい路線網を試行、形成する可能性が狭められてしまった。
鉄路がまだ存続していた中、オムニバスタウン指定というのは、オムニバスタウン指定基準を含めて、やや疑問が残るところである。
ただ、オムニバスタウン指定によって、岐阜市内のバス交通サービスが向上したこともまた事実である。また路面電車廃止と同日、市内3社のバス会社が岐阜バスに統一され、赤字負担も軽減された。名鉄バス岐阜バスに事業譲渡する形で岐阜地区から撤退、赤字を計上していた公営企業の岐阜市営バスも岐阜バスに事業を譲渡し消滅している。
 
 
路面電車存続は不可能であった
そもそも岐阜市は自動車社会であり、さらに市内の道路が狭隘であったため、当初から路面電車存続には難しい地形であったといえる。そのため、路面電車を存続させるには市街地再開発、道路整備事業など、長期の期間と多くの資金が必要であったと考えられる。そもそも岐阜市内の空洞化が顕著であったことを踏まえれば、市街地再開発は市内活性化のための必要経費であるとも解釈できるだろう。さらに自家用車に依存している市民が路面電車の利用へとシフトしたとしても、路面電車利用が定着するまでには相当の期間がかかる。となれば、岐阜市名鉄側が早期にこの問題に取り組んでいれば、という反実仮想が頭をよぎる。早期に市街地整備に取り組み、あわよくば市街地道路の拡幅に着手していれば、路面電車と自動車どちらを存続させるか、究極の選択を迫られることはなかったかもしれない。2002年に岐阜市はオムニバスタウンに指定されているが、バス事業の活性化を意義とするこの政策が適用されたこの時点で岐阜の路面電車の運命は決まっていたというべきか。路面電車の廃止により、市街地の空洞化が進行したことを指摘する声もあるが、私個人は、岐阜市の衰退の象徴が路面電車廃止なのではないかと考えている。
ただ、当時はあまりLRTやBRTといった構想が現在ほど一般的ではなかったという点も考慮すれば、当時の政策を批判するのはやや酷であろう。あくまでこれらは結果論であり、時すでに遅し、後の祭りである。
 
同様に、自動車社会から脱却できなかったことも痛手であった。2003年、岐阜市路面電車の設備を改良して社会実験を行なったが、自動車社会である岐阜市では、まず市内の自動車乗り入れ規制を行うべきではなかったか。郊外の路面電車駅に自動車駐車場を設置し、路面電車に乗り換えを促す手段を整えていれば、自家用車の利用者を路面電車に転換させる可能性は大いにあったはずだ。そもそも市街地の道路が比較的狭隘で、かつ道路幅員拡張が困難であることを踏まえれば、路面電車の存続の如何に関係なく、渋滞発生時間帯における市内への自家用車乗り入れ制限を進めていく必要はあったと思われる。
 
これらを踏まえると、岐阜市では路面電車を存続させる以前に、解決すべき課題が多く、路面電車存続に向けて課題を解決しきれなかったというのが結論になるだろう。富山や福井で成果を収めた将来の地方鉄道活性化モデルは、岐阜での一件を通じて、資金的にも自治体側に多くを依存している点や、沿線自治体間の合意形成が難航した場合に実行が難しいといった点など、いくつかの問題点を明らかにした。
 
 
2005年、変化の年
2005年という年は中部地方の鉄道にとって、特に名鉄にとっては変化の多い年であった。
岐阜市内の路面電車が姿を消す1ヶ月前の2005年2月、愛知県常滑市中部国際空港が開港した。これまで名古屋の玄関口として機能してきた県営名古屋飛行場が手狭になったため、世界に向けた新たな名古屋の玄関口として建設された。空港アクセスとして、名鉄常滑線の終着駅である常滑駅から空港線が延伸され、常滑線は空港アクセス路線へと変貌した。「ミュースカイ」2000系を始めとする新型車両を導入し、来たる空港アクセス鉄道としての役割を果たすべく、白紙ダイヤ改正を行って万全の輸送体制を整えた。さらには2005年3月25日から長久手市日本国際博覧会が開催され、世界から多くの人がセントレアを通じて名古屋を訪れた。名鉄中部国際空港開港によって空港アクセス鉄道として機能するだけでなく、万博輸送という使命をも背負うことになったのである。
 
そもそも名鉄にとって、2000年代は激動の年代であった。バブル崩壊後の関連企業売却、分社化。一方でセントレアの開港と、それに続く万博輸送、はたまた一方では長い歴史を持つ岐阜の路面電車の全面廃止。岐阜の路面電車の廃止は、ある意味で、名鉄の一時代の終焉を意味していたのかもしれない。かつて、近鉄に次ぐ私鉄総営業距離第2位の威勢を誇っていた名鉄は、岐阜600V路線の廃止によって、2位の座を東武に譲ることになった。
この後も名鉄では2008年に「パノラマカー」の名で長く愛された7000系が引退、さらには福井鉄道がグループ傘下から離脱するなど、目まぐるしい変化を経験してようやく落ち着きを取り戻し、現在に至る。
 
 
廃線から15年
岐阜市路面電車の廃止から15年、廃止直後から廃止の是非が問われ、様々な議論がなされてきた。しかし、このまま岐阜市の事例を富山市と比較して悪とするには、あまりに短絡的ではないか。今後続くと思われる少子高齢化は、多くの地方都市に大きな影響を与えるに違いない。岐阜市においても、郊外の人口減少が進み、バスを中心とした交通網が最終的には適正な規模になる可能性もある。廃止当時に多くの課題が明らかになったのも事実である。しかし、路面電車廃止の決断が正しかったかどうかは、今後の岐阜市の変化を見ていかなければ分からないだろう。
今後の岐阜市がどのような変化を遂げるのか、見届けていきたいと思う。
 
 

失われた岐阜の鉄路 〜岐阜の路面電車は存続可能だったのか〜 vol.1

蘇った鉄路と廃れていった鉄路
2006年、富山で新たに生まれ変わった鉄道があった。富山〜岩瀬浜を結んでいたJR富山港線を引き継ぐ形で富山ライトレールが開業したのだ。収益が悪化し、JRから引導を渡されるはずだった鉄道線が一転新たな需要を生み出し、復活するまでの奇跡のシナリオに多くの関心が寄せられた。
富山で奇跡とも言える復活が起こった一方、同時期の岐阜では、長い歴史を持つ岐阜市路面電車が長い歴史に幕を下ろそうとしていた。富山では路面電車が再興している中、なぜ岐阜は路面電車の廃止という結論に至ったのか。蘇った鉄路と廃れていった鉄路。同じ時期に正反対の運命を辿ったこの二つの鉄路を分けたものは、一体何だったのだろうか。
 
 
変化していく岐阜の街
かつての岐阜は繊維業で発達した街であった。当時は名岐間のアクセスが現在ほど発達しておらず、岐阜市近郊に住む人々は誰もが岐阜市街地を目指した。柳ヶ瀬をはじめとする岐阜の市街地は通勤、買い物の人々で溢れかえり、活気に満ち溢れていた。そんな岐阜市内の足として、路面電車は重宝されてきた。
しかし1980年代に外国製品に押される形で岐阜市内での繊維業が衰退、合わせて国鉄の民営化により、名岐間のアクセスが改善されると、市民は名古屋市に流出し始め、岐阜市は次第に名古屋の衛星都市としての性格を帯び始める。さらには市の主要施設が郊外へ移転を始めたため、岐阜市街地をはじめとする岐阜市内の人口流動は完全に変容してしまった。市内の人口流動が大きく変容した中、市内の交通網を完全再編しようとする動きが出てくるのは当然と言える。

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岐阜駅前のバスターミナルから出発する岐阜バス

駅前広場にはモ513が保存されている

 

悪循環に陥った岐阜の交通網
路面電車は道路の幅員が狭い所を走っている場合が多く、自動車社会である岐阜では交通渋滞の一因となって自動車交通に影響を与えていた。また路面電車が渋滞に巻き込まれる事によって定時性が低下、さらに道路の幅員が狭いため停留所の安全地帯が整備できず、路面電車の乗客と自動車との接触事故も発生するなど、路面電車の特性が生かし切れていなかった。
 
一方バス側も問題を抱えていた。ただでさえ広いとは言えない市街地道路の真ん中を路面電車が走っていることで走行可能な車線が減少、バスの定時性が低下していた。また事業者側にも問題があった。というのも、岐阜市内だけで岐阜バス名鉄バス岐阜市営バスの3社がひしめく「バス激戦区」であったのだ。さらに厄介な事に、バス事業者間の競争が激化した事で、各社とも赤字を計上しており、バス事業者共倒れの危機にあったのだ。このように、バス、路面電車それぞれに問題を抱えているだけでなく、両形態が互いに足を引っ張っている状態であった。岐阜市の交通網はこれまでにないほどの危機に陥っていた。
 
そんな中、2002年に岐阜市はオムニバスタウンに指定された。これはバスを市内における重要な交通手段として認め、該当する市内を運行するバス事業者にサービス向上のための補助金を5年間交付するというものである。これを機に岐阜市ではバス路線のサービス改善に取り組むことになる。
のちの話ではあるが路面電車廃止と同時に、岐阜市営バスが廃止、名鉄バスも岐阜地区から撤退し、両者の路線、設備は岐阜バスに引き継がれた。
 
路面電車を運行する名鉄側も現状を打開すべく、新型低床車両を導入しサービス向上を図ったが、収益向上には繋がらずやがて経営が困難になり、2003年1月には沿線自治体と廃止に向けた協議を開始する。岐阜市では1960年代の岐阜市議会において路面電車の廃止決議が採決された歴史があり、当時もこの採決は効力を有していた。しかしこの時の岐阜市路面電車存続の可能性を積極的に探っていた。
 
2003年、道路上に仮設の安全地帯を設置し軌道内を封鎖するなどして、路面電車の安全性、定時性を高め、路面電車の利用客増加を狙う社会実験が行われた。しかし主要道路を封鎖されたことで周辺道路の交通渋滞が悪化、自動車利用者から不評であり、本題である路面電車においても良い結果を出すことが出来なかった。ついに名鉄は2004年に廃止届を提出する。が、ここでも岐阜市は諦めず路線の存続を協議し続けた。いくつかの民間団体が支援検討を打診したものの、どれも沿線自治体の支援を前提とした再建案であった。実際、福井県における京福電鉄撤退からえちぜん鉄道設立の際も、沿線自治体からの資金投入がなされていたため、自治体の支援を要請するのは何ら変わったことではない。だが2004年3月、名鉄が廃止届を出したのとほとんど同じタイミングで、岐阜市内の産業廃棄物処理業社による違法処理問題が発覚。この時廃棄物撤去を市が負担せざるを得ず、結果的に市の財政状況が悪化、路面電車の支援がほとんど不可能な状態になってしまっていた。岐阜市長が存続断念を宣言したのは、廃止まであと8ヶ月の2004年7月末であった。

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徹明町駅の出札案内所跡

 

存続断念が7月末にもつれ込んだため、代替交通機関の選定も遅れた。通常廃止6ヶ月前に選定されるべき代替交通機関事業者が、岐阜バスに決定したのは2004年12月のこと。廃線までわずか3ヶ月という時期であった。このわずか3ヶ月の間に、岐阜バスが運転手、バス車両の供出を完了できるはずもなく、2005年3月の廃止後もしばらくの間、必要な輸送量を確保できずに乗客の積み残しを発生させてしまう事態になった。

 

次の記事では路面電車の廃止によって明らかになった課題を整理してみたいと思う。

 
続く
 
 
 
 
 
 

【搭乗記】仙台遠征最終日 NH734で帰阪 JA69AN

こんにちは。仙台旅行遠征記最終日です。といっても書くことはほとんどありませんが…。

 

この日は常磐線に乗って東京に上り、羽田で飛行機に乗る予定であった。

しかし、台風15号が強い勢いを持って日本列島に接近しており、羽田から飛行機が飛ばないとなると、翌日の夜遅くまで足止めを食らうため、急遽仙台から直接飛行機に乗って伊丹まで帰る計画に変更した。常磐線の乗り潰しのため、そして不通区間のバス代行に乗るため、719系に乗るため、E657系に乗るため…と様々な目的を持って、わざわざ常磐線に乗る行程にしたのだが、常磐線の旅は幻となった。

 

強いてよかった点を挙げるとするならば、搭乗することになったNH734が、今まで搭乗経験のない737-800での運航であったという点だろうか。とはいえ東日本大震災とそれに伴う原発事故の影響を強く残す常磐線代行バスに乗車できなかったのはやはり残念である。複雑な気持ちのまま仙台を後にすることになった。

 

仙台空港には大手航空会社のほか、LCCも就航しており、様々な航空会社の看板が並ぶチェックインカウンターは見ていてかなり賑やかである。伊丹は人こそ多いものの、大手航空会社のみの就航である上、ビジネス客が多いせいかどこか地味な印象を持つ。

 

出発便が重なってしまっているようで、検査場はやや混雑していた。どうやら仙台空港では、10時前後に出発便が集中しており、私が搭乗するNH734便に加えてANAJALの新千歳便、そしてアイベックスの福岡行きなどがほぼ同時に出発するという。行列が出来ていた検査場では、出発時刻が近いJALの新千歳行きの乗客を優先する措置が取られていた。

 

NH734便は、伊丹からの仙台行き初便であるNH731便の折り返しとして運用されるようだ。ちなみに私が行きに搭乗したNH735便は、仙台からの伊丹行き初便の折り返し運用である。

 

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搭乗機はJA69AN


偶然搭乗口に近いところにいたため、優先搭乗終了直後に搭乗することができた。まるで優先搭乗を利用したかのような気分である。座席は進行方向左側のかなり後方である。仙台からの大阪行きということで、ある程度の混雑は予想していたが、まさか満席になるとまでは予想していなかった。窓際の席だったが、小型機の737ということで余計に圧迫感を感じた。

RWY09から離陸し、一度太平洋上空に出る。台風が来ているからなのか、沖合は少し風が強く、やや風に煽られながら右旋回を行い、再度日本列島上空に戻る。
 

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仙台空港を離陸後、一度太平洋上へ出る
途中機長からのアナウンスがあり、天候は良好だが、やや風が強いため、少し揺れるかもしれないとアナウンスされた。ちょうどその頃、雲の隙間から富士山の頂上が見えた。
 

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富士山
富士山を撮影後、長野上空でFlightrader24を見ているとちょうど自分の乗っている飛行機とドリームリフターが並んで飛行していることがわかり、もう一度窓の外を注視してみることにした。ドリームリフターはセントレアへの着陸に向けて降下を開始しており、下を注視していると独特のフォルムをした飛行機が小さく見えた。
 
ドリームリフターが見えなくなってからしばらくして、この飛行機も降下を開始した。大阪周辺は非常にいい天気で、大阪平野をはっきり眺めることができた。
 

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着陸態勢の機内から大阪平野を望む

八尾空港の滑走路が見える

風が強く、やや揺れたものの、穏やかに32Lに着陸。定刻であった。
 
座席が機体後方であったため、最後の方に降機した。
手荷物受取場に着いてしばらくすると、荷物が出てきた。いつになるかと待っていたが、なんとプライオリティの荷物たちのすぐ後ろに私の荷物があるではないか。搭乗の時もそうだったが、何かプライオリティのサービスを受けたような気分になったのであった。
 
なんちゃって優先搭乗の気分を味わいつつ、仙台旅行を終えたのであった。
ちなみにこの後の感染症流行もあって、この日以降私は飛行機に乗ることが出来ていない。またいつか、飛行機に乗って旅行へ行きたいものである。
 
 
 
 
 

【旅行記】仙台遠征4日目 仙石線 20190907

こんにちは。仙台旅行4日目。
今日はまず松島を観光することに。
まずはあおば通駅まで移動して、仙石線に乗車。
路線図も見ずに、先発である小鶴新田行きに乗ろうとしたが...。
ってこれ途中駅までやないか〜い。しかも入庫列車やし。しかもしかも何気にレア行き先だった。行先表示撮っておけば良かった…。
多賀城行きに乗車し、多賀城から後続の高城町行きに乗り換えることに。多賀城行きの列車は、仙石線内でも限られた数だけ在籍するデュアルシート車だった。多賀城駅高城町行きに乗り換え、数分の乗車で松島海岸に到着。しかし、天気が微妙…。太陽は出ているが、雲が多く霞んでいる。いわゆる「ガスっぽい」というやつだ。遊覧船も出ているようだが、この後にも行く場所があるので最低限の観光に留める。
 

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松島らしい写真を撮ることができず
数枚写真を撮った後、高城町へ。これで仙石線は完乗。次の目的地に向かうため石巻方面の列車を待つ。仙石東北ラインからの快速に乗り、野蒜にて下車。降りたのは私を含めて6名程度であった。
 
野蒜駅宮城県東松島市にある。東日本大震災では隣駅の東名駅と共に津波の被害を受けた。震災後、野蒜地区は山林を切り開いて造成した野蒜ヶ丘と呼ばれる高台へと主要機能を移転した。そしてまちの高台移転に合わせ、仙石線も内陸側へと経路を変更し東名、野蒜の2駅が野蒜ヶ丘周辺の高台へと移転した。
 
さて、津波の被害を受けた旧野蒜駅だが、実は駅舎そのものは流失せず残っていた(もっとも、駅舎自体が比較的最近に建てられたものであった)。駅としての役割を終えた旧野蒜駅舎は現在東松島市震災復興伝承館として使用されている。現在の野蒜駅からは歩いて15分弱ほどのアクセスである。
 
震災復興伝承館には野蒜駅の旧ホームが当時のまま残されている。線路が歪んでいるのは、津波と瓦礫の力によるものであろうか。
 

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津波の被害を受けた旧野蒜駅
伝承館では、被災者の体験談、そして復興の過程について様々な展示を見る事ができた。放映されていた映像で被災者が語っていた「何がなんでも、高台に逃げないといけない。」という言葉は、被災した野蒜の街を見てから聞くととても説得力を感じるものであった。
 
実は、この旧ホームの横に東松島市の震災復興慰霊碑が建っている。よく近づいてみると、芳名板であった。かつてこの地で生活を営んでいた人々のことを思うと、いたたまれない気持ちになった。私の親族が東日本大震災で被災していることもあり、どうしても他人事とは思えなかったのである。手を合わせ、犠牲者の冥福を祈った。
 
祈念館を後にし、野蒜駅へ向かう。駅のある高台への階段を登るまでの道沿いは、未だに復旧工事を行っていた。現在はほとんどが更地であるが、震災前このあたりには住宅地が広がっていた。その更地からかつての野蒜の街の姿を想像することは出来なかった。
 

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野蒜駅から、高台へ移転した現在の野蒜駅を望む
野蒜駅から仙石東北ラインの快速列車に乗車し、仙台駅へ戻ることにした。
 
この日は特に予定はなかったが、仙台駅周辺を散策することにした。この日は日曜日で、1日目に訪れた定禅寺通ではイベントが開催されていたようだが、定禅寺通へは向かわないことにした。というのもちょうどこの時間帯に空に暗い雲がかかってきていたからである。また、翌日の朝には仙台を去る予定であったため、お土産を購入することにした。
 
定禅寺でのジャズフェスティバルの関連イベントなのか、仙台駅の歩道橋上にも多くの屋台が出店していた。商店に興味を惹かれたが、せっかく仙台に来ているからということで、屋台ではなく駅ナカずんだ餅の土産物屋が扱っているずんだシェイクを頂く事にした。ずんだシェイクにホイップクリームをのせたものもあり、本当に美味しいのかと最初は半信半疑であったが、ずんだシェイクを飲んだ瞬間においしさが理解できた。なるほど美味しい。枝豆の生っぽさがなく、またあっさりしている。ホイップクリームをのせてもあっさりと飲み干せてしまいそうであった。
 

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ずんだシェイク
ずんだシェイクを頂いた後、仙台駅近くのAER展望テラスで仙台市内を眺めてみる事にする。先ほどよりは雲は減っていたが、まだ晴れたり曇ったりの不安定な天気であった。どん曇りの仙台市内を眺めながら、ここは夜に来るべきだったと後悔する。その後仙台駅構内の土産物屋で土産をいくつか購入する。普段は土産など購入しない私だが、萩の月がとても好きなので買う事にした。明日が早いので、この日は早めに引き上げる事にした。
 

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仙台市北東部を眺める

手前が仙台駅

土産物を購入後、荷物を置いて晩ご飯を食べにいく事にする。お金がないのでぼっちサイゼリアで軽く済ませる事にした。明日は朝から仙台を出発し、常磐線でひたすら東京方面へ向かう。その後羽田から伊丹行きの飛行機に乗って帰宅する予定であった。ちなみに、途中のいわきから特急ひたちに乗車する予定であったが、仙台旅行へ出発する直前まで忙しかったため、切符はまだ購入できていなかった。
 
…のはいいのだが。一つ問題が浮上した。どうやら強い勢力を持った台風15号が明日の夜に関東地方に上陸するらしいのだ。もし東京から乗る飛行機が飛ばないとなると、運航が再開できるのは翌日の昼前ごろになるかもしれない。仙台旅行での大荷物を抱えたまま、東京で帰宅難民になる可能性があった。私はそれでもよかったのだが(おい)翌日は予定があったので、帰宅難民になってしまうと予定に支障が出てしまう。さあどうしようか。明日の行程について一晩中頭を悩ませる事になるのであった。
 
 
 
 
 

【旅行記】仙台遠征3日目 仙台市内/瑞鳳殿20190906

まずはじめに。大学が始まって忙しくなったので更新頻度を抑えます。2週間に1回のペースを目標に頑張ります。では以下本編です。
 
 
 
仙台旅行3日目。今日は仙台市内の観光地を巡ることにする。
まず最初に、仙台駅から地下鉄東西線に乗って国際センター駅を目指す。地下鉄完乗も兼ねているので、一日乗車券を購入した。
 
東西線は2015年に開業した路線で、日本全国の地下鉄路線の中で最も新しい路線である。
掘削コストを抑えるため、トンネル半径は通常の規格より小さく、また都営大江戸線や大阪メトロ長堀鶴見緑地線のような鉄輪式リニアモーターカーを採用している。東西線の構想当初は仙石線との直通運転も考えられており、中途半端な位置にある仙石線あおば通駅はその名残なのだとか。
 
国際センター駅で下車。東西線は当駅の仙台寄りの一部区間で地上を走行する。駅改札外から車両が撮影できるかと思ったが、運悪く朝は逆光であり、その上草が生い茂っていたため、とても撮影地と呼べるようなものではなかった。まあしょうがないか…。

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国際センター駅

2階にはカフェが入居している

国際センター駅から仙台城まで徒歩で向かうことにする。本当は仙台駅からバスで向かう方が無難だが、地下鉄の1日券を持っており、バス代を払うのが億劫であったこと、また距離的にも大丈夫だろうと楽観視していたことから、このような暴挙に出てしまった。実際距離的にはさほど遠くはなかったが、途中青葉城手前の急な坂道では、心が折れそうになった。なんせ9月とはいえ快晴であれば日差しも強く、汗ばむ天気である。皆さんはちゃんとバスで行った方がいいですよ。

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青葉山公園入口

ここまでがかなりキツい坂なので、暑い日はバスを利用しましょう

現在の仙台城は石垣だけであり、建物が現存しているわけではない。しかし、高台にあることから仙台市を一望でき、仙台の人気観光スポットの一つとなっている。この日も修学旅行生(おそらく中学生)が来ており、少し賑わっていた。お一人様であるが、瓶ラムネを購入。先ほどの坂道を乗り切った自分へのご褒美である。とても美味しゅうございました。
 

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伊達政宗騎馬像

終日逆光になるので撮影時は注意されたい

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青葉山公園から仙台駅方向を望む
さて、仙台城を後にし、国際センター駅まで戻る。もう一度東西線に乗り、八木山動物公園駅まで乗車。すぐ折り返して仙台駅で下車、昼食を摂る。といってもスタバのコーヒーと軽食である。コーヒーを飲みながらこの後のスケジュールを確認した。
 
スターバックスで30分ほど休息をとった後、仙台駅からバスで瑞鳳殿へと向かう。Google Mapで指定された系統のバスに乗車したのだが、どう見ても乗客が少ない。最初のうちは観光系統に乗って観光客の人混みに揉まれるよりはマシだ、などと思っていたが、目的地のバス停に着くと、なぜか住宅地の真ん中である。どうやら瑞鳳殿の裏側にあるバス停を案内されてしまったようだ。ここから住宅街の真ん中を突っ切って山道で合流しろとのこと。流石Google Mapさん。限界攻めてますね。指示通りに山道を少し歩くと正門につながる道路に出ることが出来た。突然人通りの多い道に出たものだから驚いた。
 
瑞鳳殿は、仙台藩の藩祖である伊達政宗の霊廟として1636年に造営された。造営当時の建物は1945年に戦災で焼失しており、現在のものは1979年に当時の建物を再現して再建されたものである。瑞鳳殿の敷地内には伊達政宗以外にも伊達家歴代藩主の霊屋が点在している。

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瑞鳳殿入口

裏口(のようなところ)から入ったため、一度正門まで戻った

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瑞鳳殿の重い屋根を支える斗栱(ときょう)

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瑞鳳殿の敷地内にある感仙殿

2代目藩主伊達忠宗の霊屋である

瑞鳳殿を見学し、いろいろ写真を撮った後、もう一度仙台駅に向かう。どうでもいい話だが、瑞鳳殿を見学していた際、蚊に足の複数箇所を刺されてしまい、夜には痒みと腫れで真っ赤になっていた。
 
仙台駅に戻った後は、地下鉄の乗り潰しを再開することにする。東西線の仙台から荒井までを乗り通し、東西線を完乗した。かつてのこの地域の交通手段はバスが主体であり、仙台駅方面へ向かう仙台市交通局のバス路線が多く通っていたが、東西線開業に伴う路線再編で多くのバス路線が地下鉄駅を発着とする路線形態へと変更されている。

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東西線の終点である荒井駅

駅前のバスターミナルから周辺地域へアクセスできる

荒井駅から仙台駅へ戻り、今度は南北線へ乗車して泉中央へと向かう。南北線仙台市で最初に開業した地下鉄で、1987年に八乙女駅〜富沢間が開業、1992年に八乙女〜泉中央間が延伸開業している。南北線仙台市南部の長町と、北部の泉中央の二つの副都心と、仙台市の中心部を結ぶ役割を果たす重要な地下鉄路線である。
泉中央は仙台市の副都心として、20世紀に造成された。仙台市泉区に属し、仙台市ベッドタウンとしての機能を担っている。実際利用客の人数も多く、仙台から終点までずっと車内は混雑したままであった。
泉中央から少し北上すると、2016年に市制へと移行した富谷市に出る。富谷市もまた泉中央と同様仙台市ベッドタウンであり、多くの住宅街が立地しているが、富谷市には鉄道路線が一切通っておらず仙台市街地へ向かうにはバスを利用して泉中央まで出る必要がある。南北線を富谷市まで延伸する構想も何度か持ち上がったようだが、採算性の問題や、コンパクトシティ構想を進めていた仙台市の消極的姿勢もあり、結局実現しなかった。
 
乗り潰しなので、泉中央に滞在することなくすぐに折り返した。富沢まで向かい、JRへ乗り換えるため、長町で下車した。長町も仙台の副都心であり、駅前には多くの高層マンションの他に大型家具店のイケアがある。

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長町副都心に位置する富沢地区の車窓

住宅、マンションが多い

仙台市の副都心は人口規模が程よく、混雑しない程度に人の流れがあるため、窮屈さを感じず住みやすそうだな〜と感じた。
 
この日は夜から別の用事が入っていたため、早めに引き上げた。晩ご飯は回転寿司でした。(写真はありません)
それでは。
 
 
 
 
 
 
 
 

【旅行記】仙台遠征2日目 石巻線/気仙沼BRT乗りつぶし 20190905

こんにちは。
仙台旅行の続きを
 
2日目は天気があまり良くなさそうだったので乗り鉄メインで行くことに。
仙台→(仙石東北ライン)→石巻→女川→小牛田→前谷地→柳津→気仙沼→一ノ関→仙台のルートで乗り潰しを行う。

仙石東北ラインの特別快速で石巻へ。乗車するのは仙石東北ライン専用系列のHB-E210系
交流電化の東北本線から直流電化の仙石線に転線する為の連絡線が非電化のため、この車両はディーゼルカーである。ただしハイブリッドシステムのため、所々電気も使っている車両。最近作られた気動車ということもあって、パワフルで結構速い。

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仙石東北ライン専用のHB-E210系

JR東日本お得意の(?)ハイブリッドディーゼルカーである

特別快速で停車駅が少ないこともあって一時間弱で石巻に到着。仙石線ホームから移動して石巻線ホームへ。
 
仙石線のホームが他と少し離れているのは、元々仙石線が私鉄として開業したためである。東北本線が交流電化にも関わらず、仙石線だけ直流電化なのも同様の理由である。

石巻線完乗のため、キハ110に乗って女川へ。
実は女川は前々から行きたいと思っていた場所。降りて観光するか直前まで迷ったが、次の列車が1時間半後で、今後の乗り潰しスケジュールにも大いに影響するので泣く泣く諦めることに。
 
かつて存在した女川駅の旧駅舎の階段にはチリ地震津波到達水位が線引きされており、当時の惨状を後世に伝えていた。だが、東日本大震災津波で駅舎そのものが全壊したため、現存していない。これだけでもあの日の津波の威力がどれほどであったかがわかる。現在は温泉を併設した3階建ての新しい駅舎が建設されており、女川の玄関口としての役割を果たしている。
 

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震災後再建された女川駅

温泉施設も併設されており、街の交流拠点となっている

そんな女川の駅前には新しい商店が立ち並び、まさに「女川のまちびらき」といった様相であった。しかし、列車ダイヤの都合で滞在時間はわずか7分。後ろ髪を引かれる思いで折り返し列車に飛び乗った。いつかまた再訪して、町をゆっくり散策してみたいと思う。
 
石巻で数十分停車。その間に駅のNewdaysで昼食を購入。引き続き乗車し小牛田到着をもって石巻線完乗。
 
そしてそのまま折り返し前谷地まで乗車。前谷地から気仙沼線に乗り換え柳津まで。

 
柳津で列車を降り、ここから先はBRT区間に入る。ここから先、柳津から気仙沼まではBRTで2時間弱である。気仙沼線志津川町を中心に津波で甚大な被害を受けたため、柳津から気仙沼の間がBRTに切り替えられた。BRT区間のうち、7割は専用道路を走るが、志津川町内を中心に一般道路も多く走行する。キハ40に乗りたい気持ちが強かったが、東日本大震災で被災した路線のBRT転換によって、余剰となった車両(主にキハ110など)に押し出される形で東北地方のキハ40は急減してしまった。

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柳津駅

訪問から2ヶ月後、BRT区間の鉄道事業廃止届が提出されたため、

事実上の気仙沼線の終着駅になってしまった。

BRTの専用道は線路1本分の幅しかないのでバスが通るにはやや狭いといったような感じ。通れないわけではないが...やや奥まった住宅街の道路ほどの幅と言えばわかりやすいだろうか。レールの上を走る鉄道と違って、バスはハンドル操作を必要とするため、余裕の少ない道路幅では少し運転が大変そうな印象を受けた。
 
駅間に交換スペースがあるのだが、このスペース、両側に2車線が膨らんだ形で、交換がない場合でも進行方向左側の車線に入って、信号が青に変わるまで停車しなければならない。システムの都合上仕方ないのだが、この先の専用道でも度々この停車があったので、乗客である筆者でも少し面倒な印象を受けた。もう少し道路幅があれば、より高速での運転が可能になるかもしれない。鉄道ほどスピードが出ないというのがバスの弱点である。
 

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BRT同士の行き違い

このような待避所が駅間に多数設けられている

内陸ではトンネルが続くが、南三陸町内に入ると一変、広い砂地とたくさんの工事用トラックの光景が現れる。ここは震災で甚大な被害を受けた場所。現在は町全体をかさ上げする工事が行われている。津波が5階部分まで到達しながらも住民が屋上に避難し難を逃れたという高野会館が現在も当時のまま残されていた。震災から8年、多くの街では復興が進展しており、被災した建造物や瓦礫は撤去されて更地になっている場所が多かったため、被災した建造物が現存しているのを見るのはこれが初めてであった。年月の経過の早さに驚くと共に、震災の被害の甚大さを改めて実感した。
 
志津川の町を抜け、しばらく進むとまた山道に入る。南三陸町内のBRT運行経路は何度か変更されているようで、BRTの廃道らしきものもあった。
 
本吉駅で乗務員交代、定刻より2,3分遅れていたが、あわせて乗客の買い出し、トイレ休憩も行われた。乗務員も急いでいる様子ではなく、この手の休憩はここでは日常なのかもしれない。ただ路線バスで休憩というのは少し珍しい光景である。
 
この先気仙沼線は海岸線に沿って走っていく。大谷海岸駅は3階建ての立派な建物の道の駅に併設された駅で、線路の向こう側には海水浴場もあり、「日本一海水浴場に近い駅」として知られていた。しかし海岸に近いことから津波による被害は甚大で、道の駅の建物は流失こそ免れたものの、損傷が激しかったため解体されている。また駅周辺の土地の地盤沈下が著しく、地盤の嵩上げ工事に合わせてBRTの駅は国道沿いに移転している。現在跡地には農産物直売所のみが残り、道の駅としての営業を続けている。

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大谷海岸駅跡 土地の嵩上げ工事のためBRTの走る国道の高さが高いのがわかる

かつての道の駅は写真の左側にあった

一方で大谷海岸駅の隣駅である陸前階上駅では、鉄道線時代のホームがBRT転換後もそのまま残っており、キハ40が今にも入線しそうな雰囲気であった。気仙沼線の周辺駅の中でもこの陸前階上駅だけは海から離れており、津波の被害を免れている。思えばあの震災から8年以上が経過し、当時の鉄道線の面影を残すものは、路盤以外ほとんど消えてしまったが、この駅だけはかつてのJR気仙沼線の面影を強く残している。
 

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鉄道線時代の駅名標が残る陸前階上

内陸のため、津波の被害を受けなかった

気仙沼に到着。大船渡BRTも乗りたかったが、今回は仙台に滞在して日帰りで乗り潰しをしているので、大船渡BRTは諦めて大船渡線(鉄道線)で一ノ関まで出ることにする。
 
ちなみに、私の訪問から数ヶ月後、JR東日本はBRTでの復旧となっている気仙沼線大船渡線における鉄道事業廃止届を提出した。これから先、よほどのことがない限り、気仙沼の沿線に鉄道がやってくる事はもうないだろう。

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気仙沼駅構内はBRTの発着場に改装された

かつてはここにもレールが敷かれていた

 
さて、これから私が乗る大船渡線は大きく迂回した線形となっている。その昔、自分の街に鉄道を誘致しようとした結果多数の町を経由するために何度も迂回せざるを得なくなった事がきっかけである。諺をもじった「我田引鉄」という表現もこの事例から来ている。その線形から、大船渡線は「ドラゴンレール大船渡線」という愛称が付けられている。
(ちなみに「我田引鉄」は岐阜羽島東海道新幹線を通すよう図った大野伴睦の事例を由来とする、という説もあるようだがどちらも似たようなものだろう)
 

 

乗客は私含め10名程度。ボックスシートに一人座り、ジョイント音を聴きながらぼんやりと過ごす。ウトウトしていると、摺沢で地元の高校生が大量に乗車。気付けば筆者のボックスシートには女子高生のグループ3人が座っていた。一人だけすごく気まずいのだが、寝ていた私に配慮してか、小声で会話をしていた。配慮してくださったことに感謝しつつ、私自身常識的な範囲の声の大きさなら人の会話は全く気にならない方なので、もう少し大きい声で喋ってもらってもよかったのに、と思った。そんな私の心配をよそに、彼女たちは数駅先で降りて行った。
 
「ドラゴンレール」こと大船渡線はひたすら山間部を走り抜けていく。そして私はただぼんやりと車窓を眺めている。ファンではない人たちからすれば、暇な移動時間に過ぎないのだろうが、乗り鉄からすればこの時間こそが至福の時なのである。
 
一ノ関に到着。仙台以北の東北本線は既に乗車済みの区間であるので、後は帰るだけである。調べてみると、なんと701系の2両編成での運用。
混雑していたら…と思ったが、あまり混んでおらず普通に座る事が出来た。よくよく考えると帰宅時間帯の仙台方面行きなら、そりゃ空いてるか…。
 
結局仙台駅まで混み合うような状況にはならなかった。仙台駅手前で、線路確認のための非常ブレーキがかかり、2,3分遅れたもののそれ以外は何事もなく無事に仙台駅に到着。この日の乗り潰しを終えた。
 

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この日の晩ご飯はラーメン