滋賀県人の日記

書きたい事を書いていくだけのブログです。旅行の記録とか思い出とか。

失われた岐阜の鉄路 〜岐阜の路面電車は存続可能だったのか〜 vol.1

蘇った鉄路と廃れていった鉄路
2006年、富山で新たに生まれ変わった鉄道があった。富山〜岩瀬浜を結んでいたJR富山港線を引き継ぐ形で富山ライトレールが開業したのだ。収益が悪化し、JRから引導を渡されるはずだった鉄道線が一転新たな需要を生み出し、復活するまでの奇跡のシナリオに多くの関心が寄せられた。
富山で奇跡とも言える復活が起こった一方、同時期の岐阜では、長い歴史を持つ岐阜市路面電車が長い歴史に幕を下ろそうとしていた。富山では路面電車が再興している中、なぜ岐阜は路面電車の廃止という結論に至ったのか。蘇った鉄路と廃れていった鉄路。同じ時期に正反対の運命を辿ったこの二つの鉄路を分けたものは、一体何だったのだろうか。
 
 
変化していく岐阜の街
かつての岐阜は繊維業で発達した街であった。当時は名岐間のアクセスが現在ほど発達しておらず、岐阜市近郊に住む人々は誰もが岐阜市街地を目指した。柳ヶ瀬をはじめとする岐阜の市街地は通勤、買い物の人々で溢れかえり、活気に満ち溢れていた。そんな岐阜市内の足として、路面電車は重宝されてきた。
しかし1980年代に外国製品に押される形で岐阜市内での繊維業が衰退、合わせて国鉄の民営化により、名岐間のアクセスが改善されると、市民は名古屋市に流出し始め、岐阜市は次第に名古屋の衛星都市としての性格を帯び始める。さらには市の主要施設が郊外へ移転を始めたため、岐阜市街地をはじめとする岐阜市内の人口流動は完全に変容してしまった。市内の人口流動が大きく変容した中、市内の交通網を完全再編しようとする動きが出てくるのは当然と言える。

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岐阜駅前のバスターミナルから出発する岐阜バス

駅前広場にはモ513が保存されている

 

悪循環に陥った岐阜の交通網
路面電車は道路の幅員が狭い所を走っている場合が多く、自動車社会である岐阜では交通渋滞の一因となって自動車交通に影響を与えていた。また路面電車が渋滞に巻き込まれる事によって定時性が低下、さらに道路の幅員が狭いため停留所の安全地帯が整備できず、路面電車の乗客と自動車との接触事故も発生するなど、路面電車の特性が生かし切れていなかった。
 
一方バス側も問題を抱えていた。ただでさえ広いとは言えない市街地道路の真ん中を路面電車が走っていることで走行可能な車線が減少、バスの定時性が低下していた。また事業者側にも問題があった。というのも、岐阜市内だけで岐阜バス名鉄バス岐阜市営バスの3社がひしめく「バス激戦区」であったのだ。さらに厄介な事に、バス事業者間の競争が激化した事で、各社とも赤字を計上しており、バス事業者共倒れの危機にあったのだ。このように、バス、路面電車それぞれに問題を抱えているだけでなく、両形態が互いに足を引っ張っている状態であった。岐阜市の交通網はこれまでにないほどの危機に陥っていた。
 
そんな中、2002年に岐阜市はオムニバスタウンに指定された。これはバスを市内における重要な交通手段として認め、該当する市内を運行するバス事業者にサービス向上のための補助金を5年間交付するというものである。これを機に岐阜市ではバス路線のサービス改善に取り組むことになる。
のちの話ではあるが路面電車廃止と同時に、岐阜市営バスが廃止、名鉄バスも岐阜地区から撤退し、両者の路線、設備は岐阜バスに引き継がれた。
 
路面電車を運行する名鉄側も現状を打開すべく、新型低床車両を導入しサービス向上を図ったが、収益向上には繋がらずやがて経営が困難になり、2003年1月には沿線自治体と廃止に向けた協議を開始する。岐阜市では1960年代の岐阜市議会において路面電車の廃止決議が採決された歴史があり、当時もこの採決は効力を有していた。しかしこの時の岐阜市路面電車存続の可能性を積極的に探っていた。
 
2003年、道路上に仮設の安全地帯を設置し軌道内を封鎖するなどして、路面電車の安全性、定時性を高め、路面電車の利用客増加を狙う社会実験が行われた。しかし主要道路を封鎖されたことで周辺道路の交通渋滞が悪化、自動車利用者から不評であり、本題である路面電車においても良い結果を出すことが出来なかった。ついに名鉄は2004年に廃止届を提出する。が、ここでも岐阜市は諦めず路線の存続を協議し続けた。いくつかの民間団体が支援検討を打診したものの、どれも沿線自治体の支援を前提とした再建案であった。実際、福井県における京福電鉄撤退からえちぜん鉄道設立の際も、沿線自治体からの資金投入がなされていたため、自治体の支援を要請するのは何ら変わったことではない。だが2004年3月、名鉄が廃止届を出したのとほとんど同じタイミングで、岐阜市内の産業廃棄物処理業社による違法処理問題が発覚。この時廃棄物撤去を市が負担せざるを得ず、結果的に市の財政状況が悪化、路面電車の支援がほとんど不可能な状態になってしまっていた。岐阜市長が存続断念を宣言したのは、廃止まであと8ヶ月の2004年7月末であった。

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徹明町駅の出札案内所跡

 

存続断念が7月末にもつれ込んだため、代替交通機関の選定も遅れた。通常廃止6ヶ月前に選定されるべき代替交通機関事業者が、岐阜バスに決定したのは2004年12月のこと。廃線までわずか3ヶ月という時期であった。このわずか3ヶ月の間に、岐阜バスが運転手、バス車両の供出を完了できるはずもなく、2005年3月の廃止後もしばらくの間、必要な輸送量を確保できずに乗客の積み残しを発生させてしまう事態になった。

 

次の記事では路面電車の廃止によって明らかになった課題を整理してみたいと思う。

 
続く
 
 
 
 
 
 

【搭乗記】仙台遠征最終日 NH734で帰阪 JA69AN

こんにちは。仙台旅行遠征記最終日です。といっても書くことはほとんどありませんが…。

 

この日は常磐線に乗って東京に上り、羽田で飛行機に乗る予定であった。

しかし、台風15号が強い勢いを持って日本列島に接近しており、羽田から飛行機が飛ばないとなると、翌日の夜遅くまで足止めを食らうため、急遽仙台から直接飛行機に乗って伊丹まで帰る計画に変更した。常磐線の乗り潰しのため、そして不通区間のバス代行に乗るため、719系に乗るため、E657系に乗るため…と様々な目的を持って、わざわざ常磐線に乗る行程にしたのだが、常磐線の旅は幻となった。

 

強いてよかった点を挙げるとするならば、搭乗することになったNH734が、今まで搭乗経験のない737-800での運航であったという点だろうか。とはいえ東日本大震災とそれに伴う原発事故の影響を強く残す常磐線代行バスに乗車できなかったのはやはり残念である。複雑な気持ちのまま仙台を後にすることになった。

 

仙台空港には大手航空会社のほか、LCCも就航しており、様々な航空会社の看板が並ぶチェックインカウンターは見ていてかなり賑やかである。伊丹は人こそ多いものの、大手航空会社のみの就航である上、ビジネス客が多いせいかどこか地味な印象を持つ。

 

出発便が重なってしまっているようで、検査場はやや混雑していた。どうやら仙台空港では、10時前後に出発便が集中しており、私が搭乗するNH734便に加えてANAJALの新千歳便、そしてアイベックスの福岡行きなどがほぼ同時に出発するという。行列が出来ていた検査場では、出発時刻が近いJALの新千歳行きの乗客を優先する措置が取られていた。

 

NH734便は、伊丹からの仙台行き初便であるNH731便の折り返しとして運用されるようだ。ちなみに私が行きに搭乗したNH735便は、仙台からの伊丹行き初便の折り返し運用である。

 

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搭乗機はJA69AN


偶然搭乗口に近いところにいたため、優先搭乗終了直後に搭乗することができた。まるで優先搭乗を利用したかのような気分である。座席は進行方向左側のかなり後方である。仙台からの大阪行きということで、ある程度の混雑は予想していたが、まさか満席になるとまでは予想していなかった。窓際の席だったが、小型機の737ということで余計に圧迫感を感じた。

RWY09から離陸し、一度太平洋上空に出る。台風が来ているからなのか、沖合は少し風が強く、やや風に煽られながら右旋回を行い、再度日本列島上空に戻る。
 

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仙台空港を離陸後、一度太平洋上へ出る
途中機長からのアナウンスがあり、天候は良好だが、やや風が強いため、少し揺れるかもしれないとアナウンスされた。ちょうどその頃、雲の隙間から富士山の頂上が見えた。
 

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富士山
富士山を撮影後、長野上空でFlightrader24を見ているとちょうど自分の乗っている飛行機とドリームリフターが並んで飛行していることがわかり、もう一度窓の外を注視してみることにした。ドリームリフターはセントレアへの着陸に向けて降下を開始しており、下を注視していると独特のフォルムをした飛行機が小さく見えた。
 
ドリームリフターが見えなくなってからしばらくして、この飛行機も降下を開始した。大阪周辺は非常にいい天気で、大阪平野をはっきり眺めることができた。
 

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着陸態勢の機内から大阪平野を望む

八尾空港の滑走路が見える

風が強く、やや揺れたものの、穏やかに32Lに着陸。定刻であった。
 
座席が機体後方であったため、最後の方に降機した。
手荷物受取場に着いてしばらくすると、荷物が出てきた。いつになるかと待っていたが、なんとプライオリティの荷物たちのすぐ後ろに私の荷物があるではないか。搭乗の時もそうだったが、何かプライオリティのサービスを受けたような気分になったのであった。
 
なんちゃって優先搭乗の気分を味わいつつ、仙台旅行を終えたのであった。
ちなみにこの後の感染症流行もあって、この日以降私は飛行機に乗ることが出来ていない。またいつか、飛行機に乗って旅行へ行きたいものである。
 
 
 
 
 

【旅行記】仙台遠征4日目 仙石線 20190907

こんにちは。仙台旅行4日目。
今日はまず松島を観光することに。
まずはあおば通駅まで移動して、仙石線に乗車。
路線図も見ずに、先発である小鶴新田行きに乗ろうとしたが...。
ってこれ途中駅までやないか〜い。しかも入庫列車やし。しかもしかも何気にレア行き先だった。行先表示撮っておけば良かった…。
多賀城行きに乗車し、多賀城から後続の高城町行きに乗り換えることに。多賀城行きの列車は、仙石線内でも限られた数だけ在籍するデュアルシート車だった。多賀城駅高城町行きに乗り換え、数分の乗車で松島海岸に到着。しかし、天気が微妙…。太陽は出ているが、雲が多く霞んでいる。いわゆる「ガスっぽい」というやつだ。遊覧船も出ているようだが、この後にも行く場所があるので最低限の観光に留める。
 

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松島らしい写真を撮ることができず
数枚写真を撮った後、高城町へ。これで仙石線は完乗。次の目的地に向かうため石巻方面の列車を待つ。仙石東北ラインからの快速に乗り、野蒜にて下車。降りたのは私を含めて6名程度であった。
 
野蒜駅宮城県東松島市にある。東日本大震災では隣駅の東名駅と共に津波の被害を受けた。震災後、野蒜地区は山林を切り開いて造成した野蒜ヶ丘と呼ばれる高台へと主要機能を移転した。そしてまちの高台移転に合わせ、仙石線も内陸側へと経路を変更し東名、野蒜の2駅が野蒜ヶ丘周辺の高台へと移転した。
 
さて、津波の被害を受けた旧野蒜駅だが、実は駅舎そのものは流失せず残っていた(もっとも、駅舎自体が比較的最近に建てられたものであった)。駅としての役割を終えた旧野蒜駅舎は現在東松島市震災復興伝承館として使用されている。現在の野蒜駅からは歩いて15分弱ほどのアクセスである。
 
震災復興伝承館には野蒜駅の旧ホームが当時のまま残されている。線路が歪んでいるのは、津波と瓦礫の力によるものであろうか。
 

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津波の被害を受けた旧野蒜駅
伝承館では、被災者の体験談、そして復興の過程について様々な展示を見る事ができた。放映されていた映像で被災者が語っていた「何がなんでも、高台に逃げないといけない。」という言葉は、被災した野蒜の街を見てから聞くととても説得力を感じるものであった。
 
実は、この旧ホームの横に東松島市の震災復興慰霊碑が建っている。よく近づいてみると、芳名板であった。かつてこの地で生活を営んでいた人々のことを思うと、いたたまれない気持ちになった。私の親族が東日本大震災で被災していることもあり、どうしても他人事とは思えなかったのである。手を合わせ、犠牲者の冥福を祈った。
 
祈念館を後にし、野蒜駅へ向かう。駅のある高台への階段を登るまでの道沿いは、未だに復旧工事を行っていた。現在はほとんどが更地であるが、震災前このあたりには住宅地が広がっていた。その更地からかつての野蒜の街の姿を想像することは出来なかった。
 

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野蒜駅から、高台へ移転した現在の野蒜駅を望む
野蒜駅から仙石東北ラインの快速列車に乗車し、仙台駅へ戻ることにした。
 
この日は特に予定はなかったが、仙台駅周辺を散策することにした。この日は日曜日で、1日目に訪れた定禅寺通ではイベントが開催されていたようだが、定禅寺通へは向かわないことにした。というのもちょうどこの時間帯に空に暗い雲がかかってきていたからである。また、翌日の朝には仙台を去る予定であったため、お土産を購入することにした。
 
定禅寺でのジャズフェスティバルの関連イベントなのか、仙台駅の歩道橋上にも多くの屋台が出店していた。商店に興味を惹かれたが、せっかく仙台に来ているからということで、屋台ではなく駅ナカずんだ餅の土産物屋が扱っているずんだシェイクを頂く事にした。ずんだシェイクにホイップクリームをのせたものもあり、本当に美味しいのかと最初は半信半疑であったが、ずんだシェイクを飲んだ瞬間においしさが理解できた。なるほど美味しい。枝豆の生っぽさがなく、またあっさりしている。ホイップクリームをのせてもあっさりと飲み干せてしまいそうであった。
 

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ずんだシェイク
ずんだシェイクを頂いた後、仙台駅近くのAER展望テラスで仙台市内を眺めてみる事にする。先ほどよりは雲は減っていたが、まだ晴れたり曇ったりの不安定な天気であった。どん曇りの仙台市内を眺めながら、ここは夜に来るべきだったと後悔する。その後仙台駅構内の土産物屋で土産をいくつか購入する。普段は土産など購入しない私だが、萩の月がとても好きなので買う事にした。明日が早いので、この日は早めに引き上げる事にした。
 

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仙台市北東部を眺める

手前が仙台駅

土産物を購入後、荷物を置いて晩ご飯を食べにいく事にする。お金がないのでぼっちサイゼリアで軽く済ませる事にした。明日は朝から仙台を出発し、常磐線でひたすら東京方面へ向かう。その後羽田から伊丹行きの飛行機に乗って帰宅する予定であった。ちなみに、途中のいわきから特急ひたちに乗車する予定であったが、仙台旅行へ出発する直前まで忙しかったため、切符はまだ購入できていなかった。
 
…のはいいのだが。一つ問題が浮上した。どうやら強い勢力を持った台風15号が明日の夜に関東地方に上陸するらしいのだ。もし東京から乗る飛行機が飛ばないとなると、運航が再開できるのは翌日の昼前ごろになるかもしれない。仙台旅行での大荷物を抱えたまま、東京で帰宅難民になる可能性があった。私はそれでもよかったのだが(おい)翌日は予定があったので、帰宅難民になってしまうと予定に支障が出てしまう。さあどうしようか。明日の行程について一晩中頭を悩ませる事になるのであった。
 
 
 
 
 

【旅行記】仙台遠征3日目 仙台市内/瑞鳳殿20190906

まずはじめに。大学が始まって忙しくなったので更新頻度を抑えます。2週間に1回のペースを目標に頑張ります。では以下本編です。
 
 
 
仙台旅行3日目。今日は仙台市内の観光地を巡ることにする。
まず最初に、仙台駅から地下鉄東西線に乗って国際センター駅を目指す。地下鉄完乗も兼ねているので、一日乗車券を購入した。
 
東西線は2015年に開業した路線で、日本全国の地下鉄路線の中で最も新しい路線である。
掘削コストを抑えるため、トンネル半径は通常の規格より小さく、また都営大江戸線や大阪メトロ長堀鶴見緑地線のような鉄輪式リニアモーターカーを採用している。東西線の構想当初は仙石線との直通運転も考えられており、中途半端な位置にある仙石線あおば通駅はその名残なのだとか。
 
国際センター駅で下車。東西線は当駅の仙台寄りの一部区間で地上を走行する。駅改札外から車両が撮影できるかと思ったが、運悪く朝は逆光であり、その上草が生い茂っていたため、とても撮影地と呼べるようなものではなかった。まあしょうがないか…。

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国際センター駅

2階にはカフェが入居している

国際センター駅から仙台城まで徒歩で向かうことにする。本当は仙台駅からバスで向かう方が無難だが、地下鉄の1日券を持っており、バス代を払うのが億劫であったこと、また距離的にも大丈夫だろうと楽観視していたことから、このような暴挙に出てしまった。実際距離的にはさほど遠くはなかったが、途中青葉城手前の急な坂道では、心が折れそうになった。なんせ9月とはいえ快晴であれば日差しも強く、汗ばむ天気である。皆さんはちゃんとバスで行った方がいいですよ。

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青葉山公園入口

ここまでがかなりキツい坂なので、暑い日はバスを利用しましょう

現在の仙台城は石垣だけであり、建物が現存しているわけではない。しかし、高台にあることから仙台市を一望でき、仙台の人気観光スポットの一つとなっている。この日も修学旅行生(おそらく中学生)が来ており、少し賑わっていた。お一人様であるが、瓶ラムネを購入。先ほどの坂道を乗り切った自分へのご褒美である。とても美味しゅうございました。
 

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伊達政宗騎馬像

終日逆光になるので撮影時は注意されたい

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青葉山公園から仙台駅方向を望む
さて、仙台城を後にし、国際センター駅まで戻る。もう一度東西線に乗り、八木山動物公園駅まで乗車。すぐ折り返して仙台駅で下車、昼食を摂る。といってもスタバのコーヒーと軽食である。コーヒーを飲みながらこの後のスケジュールを確認した。
 
スターバックスで30分ほど休息をとった後、仙台駅からバスで瑞鳳殿へと向かう。Google Mapで指定された系統のバスに乗車したのだが、どう見ても乗客が少ない。最初のうちは観光系統に乗って観光客の人混みに揉まれるよりはマシだ、などと思っていたが、目的地のバス停に着くと、なぜか住宅地の真ん中である。どうやら瑞鳳殿の裏側にあるバス停を案内されてしまったようだ。ここから住宅街の真ん中を突っ切って山道で合流しろとのこと。流石Google Mapさん。限界攻めてますね。指示通りに山道を少し歩くと正門につながる道路に出ることが出来た。突然人通りの多い道に出たものだから驚いた。
 
瑞鳳殿は、仙台藩の藩祖である伊達政宗の霊廟として1636年に造営された。造営当時の建物は1945年に戦災で焼失しており、現在のものは1979年に当時の建物を再現して再建されたものである。瑞鳳殿の敷地内には伊達政宗以外にも伊達家歴代藩主の霊屋が点在している。

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瑞鳳殿入口

裏口(のようなところ)から入ったため、一度正門まで戻った

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瑞鳳殿の重い屋根を支える斗栱(ときょう)

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瑞鳳殿の敷地内にある感仙殿

2代目藩主伊達忠宗の霊屋である

瑞鳳殿を見学し、いろいろ写真を撮った後、もう一度仙台駅に向かう。どうでもいい話だが、瑞鳳殿を見学していた際、蚊に足の複数箇所を刺されてしまい、夜には痒みと腫れで真っ赤になっていた。
 
仙台駅に戻った後は、地下鉄の乗り潰しを再開することにする。東西線の仙台から荒井までを乗り通し、東西線を完乗した。かつてのこの地域の交通手段はバスが主体であり、仙台駅方面へ向かう仙台市交通局のバス路線が多く通っていたが、東西線開業に伴う路線再編で多くのバス路線が地下鉄駅を発着とする路線形態へと変更されている。

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東西線の終点である荒井駅

駅前のバスターミナルから周辺地域へアクセスできる

荒井駅から仙台駅へ戻り、今度は南北線へ乗車して泉中央へと向かう。南北線仙台市で最初に開業した地下鉄で、1987年に八乙女駅〜富沢間が開業、1992年に八乙女〜泉中央間が延伸開業している。南北線仙台市南部の長町と、北部の泉中央の二つの副都心と、仙台市の中心部を結ぶ役割を果たす重要な地下鉄路線である。
泉中央は仙台市の副都心として、20世紀に造成された。仙台市泉区に属し、仙台市ベッドタウンとしての機能を担っている。実際利用客の人数も多く、仙台から終点までずっと車内は混雑したままであった。
泉中央から少し北上すると、2016年に市制へと移行した富谷市に出る。富谷市もまた泉中央と同様仙台市ベッドタウンであり、多くの住宅街が立地しているが、富谷市には鉄道路線が一切通っておらず仙台市街地へ向かうにはバスを利用して泉中央まで出る必要がある。南北線を富谷市まで延伸する構想も何度か持ち上がったようだが、採算性の問題や、コンパクトシティ構想を進めていた仙台市の消極的姿勢もあり、結局実現しなかった。
 
乗り潰しなので、泉中央に滞在することなくすぐに折り返した。富沢まで向かい、JRへ乗り換えるため、長町で下車した。長町も仙台の副都心であり、駅前には多くの高層マンションの他に大型家具店のイケアがある。

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長町副都心に位置する富沢地区の車窓

住宅、マンションが多い

仙台市の副都心は人口規模が程よく、混雑しない程度に人の流れがあるため、窮屈さを感じず住みやすそうだな〜と感じた。
 
この日は夜から別の用事が入っていたため、早めに引き上げた。晩ご飯は回転寿司でした。(写真はありません)
それでは。
 
 
 
 
 
 
 
 

【旅行記】仙台遠征2日目 石巻線/気仙沼BRT乗りつぶし 20190905

こんにちは。
仙台旅行の続きを
 
2日目は天気があまり良くなさそうだったので乗り鉄メインで行くことに。
仙台→(仙石東北ライン)→石巻→女川→小牛田→前谷地→柳津→気仙沼→一ノ関→仙台のルートで乗り潰しを行う。

仙石東北ラインの特別快速で石巻へ。乗車するのは仙石東北ライン専用系列のHB-E210系
交流電化の東北本線から直流電化の仙石線に転線する為の連絡線が非電化のため、この車両はディーゼルカーである。ただしハイブリッドシステムのため、所々電気も使っている車両。最近作られた気動車ということもあって、パワフルで結構速い。

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仙石東北ライン専用のHB-E210系

JR東日本お得意の(?)ハイブリッドディーゼルカーである

特別快速で停車駅が少ないこともあって一時間弱で石巻に到着。仙石線ホームから移動して石巻線ホームへ。
 
仙石線のホームが他と少し離れているのは、元々仙石線が私鉄として開業したためである。東北本線が交流電化にも関わらず、仙石線だけ直流電化なのも同様の理由である。

石巻線完乗のため、キハ110に乗って女川へ。
実は女川は前々から行きたいと思っていた場所。降りて観光するか直前まで迷ったが、次の列車が1時間半後で、今後の乗り潰しスケジュールにも大いに影響するので泣く泣く諦めることに。
 
かつて存在した女川駅の旧駅舎の階段にはチリ地震津波到達水位が線引きされており、当時の惨状を後世に伝えていた。だが、東日本大震災津波で駅舎そのものが全壊したため、現存していない。これだけでもあの日の津波の威力がどれほどであったかがわかる。現在は温泉を併設した3階建ての新しい駅舎が建設されており、女川の玄関口としての役割を果たしている。
 

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震災後再建された女川駅

温泉施設も併設されており、街の交流拠点となっている

そんな女川の駅前には新しい商店が立ち並び、まさに「女川のまちびらき」といった様相であった。しかし、列車ダイヤの都合で滞在時間はわずか7分。後ろ髪を引かれる思いで折り返し列車に飛び乗った。いつかまた再訪して、町をゆっくり散策してみたいと思う。
 
石巻で数十分停車。その間に駅のNewdaysで昼食を購入。引き続き乗車し小牛田到着をもって石巻線完乗。
 
そしてそのまま折り返し前谷地まで乗車。前谷地から気仙沼線に乗り換え柳津まで。

 
柳津で列車を降り、ここから先はBRT区間に入る。ここから先、柳津から気仙沼まではBRTで2時間弱である。気仙沼線志津川町を中心に津波で甚大な被害を受けたため、柳津から気仙沼の間がBRTに切り替えられた。BRT区間のうち、7割は専用道路を走るが、志津川町内を中心に一般道路も多く走行する。キハ40に乗りたい気持ちが強かったが、東日本大震災で被災した路線のBRT転換によって、余剰となった車両(主にキハ110など)に押し出される形で東北地方のキハ40は急減してしまった。

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柳津駅

訪問から2ヶ月後、BRT区間の鉄道事業廃止届が提出されたため、

事実上の気仙沼線の終着駅になってしまった。

BRTの専用道は線路1本分の幅しかないのでバスが通るにはやや狭いといったような感じ。通れないわけではないが...やや奥まった住宅街の道路ほどの幅と言えばわかりやすいだろうか。レールの上を走る鉄道と違って、バスはハンドル操作を必要とするため、余裕の少ない道路幅では少し運転が大変そうな印象を受けた。
 
駅間に交換スペースがあるのだが、このスペース、両側に2車線が膨らんだ形で、交換がない場合でも進行方向左側の車線に入って、信号が青に変わるまで停車しなければならない。システムの都合上仕方ないのだが、この先の専用道でも度々この停車があったので、乗客である筆者でも少し面倒な印象を受けた。もう少し道路幅があれば、より高速での運転が可能になるかもしれない。鉄道ほどスピードが出ないというのがバスの弱点である。
 

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BRT同士の行き違い

このような待避所が駅間に多数設けられている

内陸ではトンネルが続くが、南三陸町内に入ると一変、広い砂地とたくさんの工事用トラックの光景が現れる。ここは震災で甚大な被害を受けた場所。現在は町全体をかさ上げする工事が行われている。津波が5階部分まで到達しながらも住民が屋上に避難し難を逃れたという高野会館が現在も当時のまま残されていた。震災から8年、多くの街では復興が進展しており、被災した建造物や瓦礫は撤去されて更地になっている場所が多かったため、被災した建造物が現存しているのを見るのはこれが初めてであった。年月の経過の早さに驚くと共に、震災の被害の甚大さを改めて実感した。
 
志津川の町を抜け、しばらく進むとまた山道に入る。南三陸町内のBRT運行経路は何度か変更されているようで、BRTの廃道らしきものもあった。
 
本吉駅で乗務員交代、定刻より2,3分遅れていたが、あわせて乗客の買い出し、トイレ休憩も行われた。乗務員も急いでいる様子ではなく、この手の休憩はここでは日常なのかもしれない。ただ路線バスで休憩というのは少し珍しい光景である。
 
この先気仙沼線は海岸線に沿って走っていく。大谷海岸駅は3階建ての立派な建物の道の駅に併設された駅で、線路の向こう側には海水浴場もあり、「日本一海水浴場に近い駅」として知られていた。しかし海岸に近いことから津波による被害は甚大で、道の駅の建物は流失こそ免れたものの、損傷が激しかったため解体されている。また駅周辺の土地の地盤沈下が著しく、地盤の嵩上げ工事に合わせてBRTの駅は国道沿いに移転している。現在跡地には農産物直売所のみが残り、道の駅としての営業を続けている。

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大谷海岸駅跡 土地の嵩上げ工事のためBRTの走る国道の高さが高いのがわかる

かつての道の駅は写真の左側にあった

一方で大谷海岸駅の隣駅である陸前階上駅では、鉄道線時代のホームがBRT転換後もそのまま残っており、キハ40が今にも入線しそうな雰囲気であった。気仙沼線の周辺駅の中でもこの陸前階上駅だけは海から離れており、津波の被害を免れている。思えばあの震災から8年以上が経過し、当時の鉄道線の面影を残すものは、路盤以外ほとんど消えてしまったが、この駅だけはかつてのJR気仙沼線の面影を強く残している。
 

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鉄道線時代の駅名標が残る陸前階上

内陸のため、津波の被害を受けなかった

気仙沼に到着。大船渡BRTも乗りたかったが、今回は仙台に滞在して日帰りで乗り潰しをしているので、大船渡BRTは諦めて大船渡線(鉄道線)で一ノ関まで出ることにする。
 
ちなみに、私の訪問から数ヶ月後、JR東日本はBRTでの復旧となっている気仙沼線大船渡線における鉄道事業廃止届を提出した。これから先、よほどのことがない限り、気仙沼の沿線に鉄道がやってくる事はもうないだろう。

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気仙沼駅構内はBRTの発着場に改装された

かつてはここにもレールが敷かれていた

 
さて、これから私が乗る大船渡線は大きく迂回した線形となっている。その昔、自分の街に鉄道を誘致しようとした結果多数の町を経由するために何度も迂回せざるを得なくなった事がきっかけである。諺をもじった「我田引鉄」という表現もこの事例から来ている。その線形から、大船渡線は「ドラゴンレール大船渡線」という愛称が付けられている。
(ちなみに「我田引鉄」は岐阜羽島東海道新幹線を通すよう図った大野伴睦の事例を由来とする、という説もあるようだがどちらも似たようなものだろう)
 

 

乗客は私含め10名程度。ボックスシートに一人座り、ジョイント音を聴きながらぼんやりと過ごす。ウトウトしていると、摺沢で地元の高校生が大量に乗車。気付けば筆者のボックスシートには女子高生のグループ3人が座っていた。一人だけすごく気まずいのだが、寝ていた私に配慮してか、小声で会話をしていた。配慮してくださったことに感謝しつつ、私自身常識的な範囲の声の大きさなら人の会話は全く気にならない方なので、もう少し大きい声で喋ってもらってもよかったのに、と思った。そんな私の心配をよそに、彼女たちは数駅先で降りて行った。
 
「ドラゴンレール」こと大船渡線はひたすら山間部を走り抜けていく。そして私はただぼんやりと車窓を眺めている。ファンではない人たちからすれば、暇な移動時間に過ぎないのだろうが、乗り鉄からすればこの時間こそが至福の時なのである。
 
一ノ関に到着。仙台以北の東北本線は既に乗車済みの区間であるので、後は帰るだけである。調べてみると、なんと701系の2両編成での運用。
混雑していたら…と思ったが、あまり混んでおらず普通に座る事が出来た。よくよく考えると帰宅時間帯の仙台方面行きなら、そりゃ空いてるか…。
 
結局仙台駅まで混み合うような状況にはならなかった。仙台駅手前で、線路確認のための非常ブレーキがかかり、2,3分遅れたもののそれ以外は何事もなく無事に仙台駅に到着。この日の乗り潰しを終えた。
 

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この日の晩ご飯はラーメン
 
 
 
 
 
 

【旅行記】仙台遠征1日目 仙台市内/定禅寺通 20190904

だいぶ昔に書いた搭乗記からの続きです。

st225i.hatenablog.com

仙台に到着して1日目。具体的なスケジュールは決まっていなかったものの、まずは仙台空港から仙台駅まで移動することにする。仙台駅のコインロッカーへ荷物を預け、まずは仙台駅近くの吉野家で昼食を摂る。
 
吉野家で牛丼を食べ終え、仙台の駅前に戻って来たが、早速暇を持て余すことになった。
実は前日まで用事があり、十分な下調べが出来ないまま仙台に来ていたため、この後何をするか全く考えていなかったのである。
少し迷った後、市内を散策することにした。まずは軽く下調べをしていた時に見つけた定禅寺通の並木道を見てみることにする。青葉通から広瀬通を横断して勾当台公園に出ると、定禅寺通に出た。ここでは車道に挟まれる形で並木道があり、寛ぐためのベンチも用意されている。
 

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定禅寺通

定禅寺通を西に進むと、突き当たりにSLが展示されている西公園が現れる。ここに保存されている機関車はC60形の1号機である。トップナンバーだが、どうやらC59形からの改造形式らしい。C59形の時代には米原や姫路で活躍し、浜松工場でC60形へと改造された後は盛岡機関区を拠点に活躍したという。(↓仙台市のHPにて解説がある)

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西公園に保存されているC60形1号機

 

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C60形1号機の銘板

改造前の形式と改造銘板が残る

西公園を後にし、定禅寺通のドトールコーヒーで少し休憩をした後、商店街を通りながら仙台駅へと戻ることにした。
勾当台公園では、仙台を舞台とした人気アニメの聖地となっているステージを見ることが出来た。
 
ところで仙台には百貨店が二つある。一つは仙台三越で、定禅寺通に面した場所に位置する。もう一つは一番町に立地する藤崎百貨店である。藤崎は全国展開こそしていないものの、東北地方の百貨店では売上額トップを誇る老舗百貨店だ。残念ながら(幸運なことに?)私が訪れた日は珍しく臨時休業の日であり、買い物客で賑わう姿を見ることは出来なかった。
 

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藤崎百貨店 ちょうど休業日だった

それにしてもなぜ藤崎が仙台三越の案内を出しているのか

そしてもう一つ、仙台を代表する百貨店としてさくら野百貨店があった。さくら野百貨店は仙台駅前の一等地に立地していたが、2017年2月27日に突如破産し閉店した。前日までは何事もなかったかのように営業していたため、破産当日建物入り口に掲示された破産通告の紙を見た市民は驚き、戸惑いを隠せなかった。
 

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さくら野百貨店はある日突然閉店し、仙台の地から姿を消した

建物は取り壊されることなく、現在でも駅前に廃墟として佇んでいる



そもそも「さくら野百貨店」自体は東北地方に数店舗存在するが、これらは破産の影響を受けていない。
さくら野百貨店」の前身は複雑なものとなっているため、ここで簡易的に説明しておくこととする。
元々株式会社百貨店連合として設立された会社が、後にマイカルのグループとなり、マイカルのブランドであるビブレを使用して「ダックビブレ」を名乗ることになった。しかしマイカルの倒産によりマイカルグループを離脱、「ダックビブレ」は分社化され、仙台店の運営は「さくら野百貨店(2代目)」、仙台店以外の運営は「さくら野東北」へと引き継がれることになる。分割と言っても当初は株式の持ち合い関係にあり、両社の合併も構想されていたようだが、後に両者の関係は解消されている(販促など一部業務では提携が残っていた)。そして「さくら野百貨店(2代目)」は「エマルシェ」に、「さくら野東北」が「さくら野百貨店(3代目)」へと同日に名称変更を行い現在に至る。つまり今回経営破綻したのは「エマルシェ」であり、「さくら野百貨店(3代目)」の営業には何ら影響はない、というわけである。
 
近年のインターネット通販の拡大を受け、百貨店事業は全国的に苦境に立たされている。特に地方百貨店の経営は都市の百貨店に比べさらに厳しく、先日には私の住む大津市でも、市内唯一の百貨店である西武大津店が閉店した。現在、「県庁所在地に百貨店が存在しない県」は滋賀、徳島、山形の3つである。とは言っても滋賀県には草津市近鉄百貨店があるが、徳島、山形は県内全域に百貨店が一つもないという状況だ。
 
仙台のさくら野百貨店もまた、マイカルという親元の経営破綻の影響を受け、単身で新たなスタートを切ったものの、その経営状況は好転せず、駅前に進出した大型チェーン店舗に次第に客を奪われる形で経営不振に陥り、倒産へと至ったのであった。現在でも、さくら野百貨店仙台店の建造物はそのままになっているが、駅前の一等地ということもあり、再開発が計画されている。
 
さて、仙台駅に戻ってから、入場券を購入して新幹線ホームで新幹線を眺めることにする。東海道山陽新幹線北陸新幹線上越新幹線(ガーラ湯沢を除く)は完乗しているのだが、東北新幹線は一度も乗ったことがない。いつかはE5系に乗って新函館北斗まで乗り通してみたいものである。
 
今日はこの辺で引き上げることにした。今日の晩ご飯は…(飯テロ注意)
 

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贅沢にお一人様牛タン
早速牛タン!!!!!昼食の吉野家が嘘のようである。多分日本全国の名産品の中でも牛タンはトップクラスに美味しいと思う。駅弁で食べるのもまた美味しいですよ。
1日目はこれで終了。2日目に続きます。
それでは。
 
 
 
 
 
 
 

【北陸4都駅物語】Vol.3 金沢駅

その駅は、かつてより多くの観光客を迎え入れてきた。有数の観光地の玄関口である。人々は兼六園口の大きな門にカメラを向け、同行者と共にシャッターを切る。どこにでもある観光地の光景である。
 
金沢駅もまた、他の北陸3県の例に漏れず、高架駅である。高架駅完成は1990年と北陸4都の中では最も早かった。金沢は、長く日本海ルートの要であった。西からは特急サンダーバードしらさぎが、東からは特急北越はくたかが乗り入れる「特急街道」である北陸本線の結節点であった。
 
そんな金沢駅のホームは、雪害対策のためホーム全体が屋根で覆われているが、切欠ホームの4番線のみ、屋根がついていない。これはかつて非電化であった七尾線で運行されていた気動車の排ガス対策の名残である。七尾線は1991年に和倉温泉まで直流電化されたが、交流電化の北陸本線にも乗り入れるため、七尾線用の交直流電車が用意された。電化工事が行われなかった和倉温泉〜輪島間はのと鉄道に移管された。会社境界は和倉温泉であるが、普通列車七尾駅で運行形態が分かれており、七尾〜和倉温泉間の普通列車のと鉄道が運行している。JRの普通列車413系415系が使用されているが、老朽化が進行しているため、2020年から521系が導入され、順次置き換えられる予定となっている。

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屋根がない金沢駅4番線ホーム
東京、大阪双方からの観光客を受け入れ、ターミナルとして栄えてきた金沢駅に、北陸新幹線が開業するというニュースが舞い降りてきたのは、2000年代初頭のこと。さらに、北陸新幹線敦賀まで延伸するまでの間、北陸新幹線の終着駅になることになったのである。
かつて東京から北陸方面へ列車で向かう場合、上越新幹線で越後湯沢まで向かい、越後湯沢で特急はくたかに乗り換える必要があった。特急はくたか北越急行線を在来線最速の時速160km/hで駆け抜け、東京北陸間のアクセス列車として重宝されたが、それでも1回の乗り換えと4時間弱の所要時間を要し、とても便利とは言いにくいものであった。それだけに、北陸新幹線の開業は北陸民にとって悲願であった。
2005年には、北陸新幹線開業を見越して駅前整備を行い、東口に「もてなしドーム」と呼ばれるガラスドームと木製の「鼓門」が完成した。在来線の一大ターミナルとして、そして来たる新幹線のターミナル駅として、申し分ないほどの出来だった。あの立派な金沢の駅舎には、新幹線を長く待ち望んだ市民の期待が込められているのだ。

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東京駅の発車標。新幹線の開業は東京北陸間のアクセスを劇的に向上させた。
 
2015年、北陸民がかねてより待ち望んでいた北陸新幹線が開業し、東京からのアクセスが改善されてからもなお、金沢への追い風が止まることはなかった。富山では、並行在来線の経営移管により、運行範囲が縮小され、サンダーバードが乗り入れなくなった。結果として、富山東京間のアクセスは飛躍的に向上したのに対して、富山大阪間のアクセス性は低下してしまった。一方で金沢は新幹線の終着駅として、新幹線・在来線特急の乗り換え拠点の地位を得ただけでなく、さらにインバウンド観光客の需要も相まって、空前の観光ブームを迎え、かつてないほどの繁栄を謳歌することになった。金沢にとって、新幹線の開業はまさに「鬼に金棒」であった。

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北陸新幹線開業後、サンダーバードは全て金沢発着に変更された。
 
石川県の隣県である富山、そして福井では路面電車が現役であるが、実は金沢にも路面電車が走っていた。北陸鉄道金沢市内線と呼ばれるその路面電車は1919年に開業したが、戦前から利用客が伸び悩み、戦時中には資材不足のため運行が制限されるなど、厳しい経営状況が続いていた。
戦後になってようやく設備の近代化を進めたものの、急速に路線網を拡大していた自社グループの路線バスに立場を奪われていく。さらに自動車交通の進展により道路の混雑が悪化、路面電車は低速運転を強いられて特性を生かすことができず、やがて始まった道路整備事業で土地を供出する形で路線網は縮小の一途を辿っていく。最終的には1965年のブレーキ故障による暴走事故が金沢市内線に引導を渡す事になった。金沢市内線は路線バスに置き換えられる形で1967年に全線廃止。今から実に50年以上前の出来事であった。その後、金沢は全国的なモータリゼーションの波を受け、自動車社会へと変容していく。

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北鉄バス金沢市内の主要な移動手段の一つである
以上の経緯から、金沢はバスが市内移動の中心である。同じく観光都市である点や、観光客輸送がバス中心である点、駅舎のデザインもあって、どうしても京都を連想してしまうのは、私だけであろうか。京都と違い、道路は広く整備されているので、京都で問題となっているような観光公害を心配する必要はない。京都と違う点は、豪雪地帯である点だ。そして、豪雪地帯でバス輸送が発達している北陸の都市といえば、新潟が挙げられる。新潟は観光都市ではないが、バスの路線網が発展している。さらに新潟と金沢はどちらも新幹線の終着駅である。
 
某月曜深夜の番組でも「金沢vs新潟」の対決企画が行われていたが、実は人口、面積、人口密度共に新潟の方が金沢に勝っている。にも関わらず、知名度や人気の高さを感じるのは金沢である。金沢は小さい町ではあるが、観光地が多いため、長く観光産業を中心としてきた。これこそが市内に観光地を持たない新潟との違いであった。昭和の時代で既に上越新幹線が開業していた新潟は、東京に程よく近い地方都市としての性格を持ち、首都圏の影響を受けながらも、独自に発展してきた。一方で東京という大都市が持つ魅力は、時に地方の若者流出という副作用を地方都市にもたらす。この副作用をうまく対処することが、地方都市の発展の鍵と言えるだろう。
 
市内の観光地だけでなく、駅高架化のタイミング、そして新幹線の開業、開業後も変わらぬアクセス性など、金沢は今まで多くの幸運に恵まれてきた。だが2020年、感染症の世界的な流行によって金沢の観光産業は大きな打撃を受けることになってしまった。今まで観光地として多くの人々を迎え入れてきた金沢が、また多くの人で溢れかえるその日がやってくることを、今はただ願うのみである。

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光都市金沢の今後はどうなるのだろうか。