滋賀県人の日記

書きたい事を書いていくだけのブログです。旅行の記録とか思い出とか。

ノースウエスト航空の話(1/2)

2020年現在、旅客輸送を行う航空会社によって構成される航空連合、いわゆるアライアンスは主に3つある。一つはANAが加盟しているスターアライアンス、そしてもう一つはJALが加盟しているワンワールド、そしてもう一つ、日本とは縁の浅いスカイチームである。だが、そんなスカイチームにも、日本人には馴染み深い航空会社があった。戦後以降日本と深い関わりを持ち、成田に拠点を置いていたノースウエスト航空である。現在ノースウエスト航空デルタ航空に合併され、消滅している。

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成田空港にあるデルタ航空の作業用車

元々はノースウエスト航空保有だったらしく、ロゴが消された跡が見える

 
先日、スカイチームメンバーであるデルタ航空が成田から撤退、設備を拡張した羽田へ路線を全て移管させた。スターアライアンスANAワンワールドJALによる実質二強状態であり、立ち入る隙のない日本にスカイチームは活路を見出せず、隣国韓国のスカイチームメンバー大韓航空のお膝元である仁川空港を、アジアのハブ空港として新たに位置付けたためだ。戦後からノースウエスト航空のアジア拠点として繁栄してきた成田の一時代が終わりを告げたと言ってもいいだろう。

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羽田空港の発着枠拡大に伴い、多くの海外航空会社が羽田へ路線を移管した一方、羽田へ新規就航しつつ既存の成田発着路線を存続させる会社も一定数あった。そんな中、デルタ航空は成田に整備工場を抱えているにも関わらず、大胆にも成田からの定期路線撤退の道を選んだのであった。

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羽田空港を離陸するデルタ航空 A350-900
 
 
ノースウエスト航空と日本の関わり
ノースウエスト航空が日本と関わりを持ち始めたのは戦後すぐのこと。日本航空が日本のナショナルフラッグキャリアとして1951年に誕生したが、設立当初の日本航空ノースウエスト航空から航空機と乗員をリースし、運行をノースウエスト航空に委託していた。
 
その後、ノースウエスト航空は太平洋路線を結ぶ航空会社として発展する。当時の航空機は現在ほど燃費性能に優れておらず、航続距離が短いため、太平洋を直行便で運行することは不可能であった。ノースウエスト航空は以遠権を行使し、日本を中継地とする形でアジア各地へも就航していた。そのため、日米間だけでなく、日本から近隣アジア諸国への移動においてもノースウエスト航空を利用する機会があり、日本において特に知名度が高かったのだ。ノースウエスト航空も成田を重要な運行拠点に位置付け、整備工場や乗務員拠点、運行管理部門までをも備えた第二の運行拠点を成田に設けた。
 
 
大量輸送時代の到来
1970年代には「ジャンボジェット」の愛称で親しまれているボーイング747や、3発ジェット機のDC-10を導入、1980年代にはボーイング747-400型をローンチカスタマーとして導入した。747-400型は従来の747型よりも機械が進化したことで、航空機関士を除いた2人乗務が可能となっており、後に多くの航空会社が導入することになる。747-400を中心に、世界の空は大量輸送時代を迎える。ノースウエストが拠点を置く成田でも、旅客型や貨物型など、多くの747が飛来していた。
 
 
ウイングス・アライアンス結成とKLMオランダ航空との提携
そんな中、ノースウエスト航空はKLMオランダ航空と提携を開始する。元々両社ともハブ機能に特化した空港を中心に路線網を作り上げる形態をとっており、両社間で設備を共有したり、株式を持ち合う体制を敷き、成功を収めた。この提携は後に航空会社による航空連合結成の先駆けとなり、ノースウエスト航空が出資していたコンチネンタル航空も加わって、航空連合「ウイングス・アライアンス」結成の動きが高まった。しかしウイングス・アライアンスへ4番目に加盟したアリタリア航空がハブ機能をうまく機能させることが出来ず、結果的にアリタリア航空はウイングス・アライアンスを脱退してスカイチームに加盟した。この時既に世界的なアライアンス結成の動きがあり、複数のメンバーを持つ大手アライアンスが3つも設立されていた。結果的に大手から外れる形になったウイングス・アライアンスは、ノースウエスト、KLM、コンチネンタル共にスカイチームに加盟することになった。2004年のことである。

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成田空港に着陸したアリタリア航空

手前に映るアエロフロート・ロシア航空も2006年にスカイチームへ加盟した

 
(続く)