滋賀県人の日記

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失われた岐阜の鉄路 〜岐阜の路面電車は存続可能だったのか〜 vol.2

 
岐阜市内線廃止がもたらした課題
ここで、岐阜市路面電車が廃止に至った要因、もしくは課題を整理していきたい。
 
・過度な自動車依存社会からの脱却
岐阜市の場合、まず自動車への過度な依存から脱却することから始めるべきであった。実際、2003年の社会実験においても、自家用車を利用していた市民からの不評が多く、社会実験で問われるべき路面電車のメリットを市民全員が共有できていなかった。この社会実験を行う際に、路面電車の駅周辺に駐車場を整備し、パークアンドライドを推進するなどして市街地への自家用車流入を抑制すべきであっただろう。
 
・路線採算性の評価基準
また、独立採算制の原則で、路線単体の採算性を計算するのではなく、バス、路面電車単独の場合、また両形態を遠近分離の形で併存させた場合など、様々なケースを検証していくべきであった。後述するが、2002年に岐阜市がオムニバスタウンに指定され、バス中心の交通システム構築に拍車がかかったことも、このような路線採算性評価を公平に行うことを一層難しくしてしまったのではないだろうか。
 
・沿線自治体の意向
沿線市町村の足並みが整わなかったのもまた一つの要因として取り上げられるだろう。富山ライトレールの場合、富山市内で完結する路線であったため富山市が単独で対応していた。えちぜん鉄道の事例では、路線が複数の自治体にまたがってはいたものの、各自治体とも京福電鉄線に依存していたため、路線復活に向けた合意がスムーズであった。だが岐阜の場合、各自治体が岐阜市内へのアクセスをあまり重要視していなかった。先述のように、活動拠点はあくまで名古屋であり、各市町村とも、岐阜よりも名古屋方面のアクセスを優先した。この時沿線自治体は、名古屋方面のアクセス拡充のみに傾倒せず、岐阜市内への潜在需要などを予測し、市民の意向も踏まえて改めて交通網の再形成に力を入れるべきであった。(空洞化が進んでいた岐阜市に目を向けさせると言うのも、非現実的なことではあるが…。)また自治体ごとに財政状況も大きく異なるため、福井のように容易に存続合意に至らなかったのである。
いずれにせよ、この時岐阜で起こったことは、富山や福井が実現した新たな地方鉄道の経営モデルの欠点を浮き彫りにしたと言える。
 
・2002年のオムニバスタウン指定
2002年、岐阜市がオムニバスタウンに指定された事で、市内のバス事業者はサービス向上に向けた様々な施策を実行できるようになった。バスの利用促進を図るこの指定により、バス事業者にはメリットが多かった一方、競合していた路面電車にはこの指定が向かい風になった可能性がある。オムニバスタウンに指定されたのは、岐阜市側がバスだけで交通を維持していくと意思表明したようなものであり、結果として路線バスとの競合区間ではバスが優位に立ち、路面電車がより一層苦しい立場に置かれる事になった。本来は、市街地において路面電車とバスのどちらがメリットが大きいかを、社会実験等で検証した上で交通網の整理に着手すべきところを、バスタウンの指定によってバスありきの交通網が形成されてしまい、最も採算性、効率性のよい路線網を試行、形成する可能性が狭められてしまった。
鉄路がまだ存続していた中、オムニバスタウン指定というのは、オムニバスタウン指定基準を含めて、やや疑問が残るところである。
ただ、オムニバスタウン指定によって、岐阜市内のバス交通サービスが向上したこともまた事実である。また路面電車廃止と同日、市内3社のバス会社が岐阜バスに統一され、赤字負担も軽減された。名鉄バス岐阜バスに事業譲渡する形で岐阜地区から撤退、赤字を計上していた公営企業の岐阜市営バスも岐阜バスに事業を譲渡し消滅している。
 
 
路面電車存続は不可能であった
そもそも岐阜市は自動車社会であり、さらに市内の道路が狭隘であったため、当初から路面電車存続には難しい地形であったといえる。そのため、路面電車を存続させるには市街地再開発、道路整備事業など、長期の期間と多くの資金が必要であったと考えられる。そもそも岐阜市内の空洞化が顕著であったことを踏まえれば、市街地再開発は市内活性化のための必要経費であるとも解釈できるだろう。さらに自家用車に依存している市民が路面電車の利用へとシフトしたとしても、路面電車利用が定着するまでには相当の期間がかかる。となれば、岐阜市名鉄側が早期にこの問題に取り組んでいれば、という反実仮想が頭をよぎる。早期に市街地整備に取り組み、あわよくば市街地道路の拡幅に着手していれば、路面電車と自動車どちらを存続させるか、究極の選択を迫られることはなかったかもしれない。2002年に岐阜市はオムニバスタウンに指定されているが、バス事業の活性化を意義とするこの政策が適用されたこの時点で岐阜の路面電車の運命は決まっていたというべきか。路面電車の廃止により、市街地の空洞化が進行したことを指摘する声もあるが、私個人は、岐阜市の衰退の象徴が路面電車廃止なのではないかと考えている。
ただ、当時はあまりLRTやBRTといった構想が現在ほど一般的ではなかったという点も考慮すれば、当時の政策を批判するのはやや酷であろう。あくまでこれらは結果論であり、時すでに遅し、後の祭りである。
 
同様に、自動車社会から脱却できなかったことも痛手であった。2003年、岐阜市路面電車の設備を改良して社会実験を行なったが、自動車社会である岐阜市では、まず市内の自動車乗り入れ規制を行うべきではなかったか。郊外の路面電車駅に自動車駐車場を設置し、路面電車に乗り換えを促す手段を整えていれば、自家用車の利用者を路面電車に転換させる可能性は大いにあったはずだ。そもそも市街地の道路が比較的狭隘で、かつ道路幅員拡張が困難であることを踏まえれば、路面電車の存続の如何に関係なく、渋滞発生時間帯における市内への自家用車乗り入れ制限を進めていく必要はあったと思われる。
 
これらを踏まえると、岐阜市では路面電車を存続させる以前に、解決すべき課題が多く、路面電車存続に向けて課題を解決しきれなかったというのが結論になるだろう。富山や福井で成果を収めた将来の地方鉄道活性化モデルは、岐阜での一件を通じて、資金的にも自治体側に多くを依存している点や、沿線自治体間の合意形成が難航した場合に実行が難しいといった点など、いくつかの問題点を明らかにした。
 
 
2005年、変化の年
2005年という年は中部地方の鉄道にとって、特に名鉄にとっては変化の多い年であった。
岐阜市内の路面電車が姿を消す1ヶ月前の2005年2月、愛知県常滑市中部国際空港が開港した。これまで名古屋の玄関口として機能してきた県営名古屋飛行場が手狭になったため、世界に向けた新たな名古屋の玄関口として建設された。空港アクセスとして、名鉄常滑線の終着駅である常滑駅から空港線が延伸され、常滑線は空港アクセス路線へと変貌した。「ミュースカイ」2000系を始めとする新型車両を導入し、来たる空港アクセス鉄道としての役割を果たすべく、白紙ダイヤ改正を行って万全の輸送体制を整えた。さらには2005年3月25日から長久手市日本国際博覧会が開催され、世界から多くの人がセントレアを通じて名古屋を訪れた。名鉄中部国際空港開港によって空港アクセス鉄道として機能するだけでなく、万博輸送という使命をも背負うことになったのである。
 
そもそも名鉄にとって、2000年代は激動の年代であった。バブル崩壊後の関連企業売却、分社化。一方でセントレアの開港と、それに続く万博輸送、はたまた一方では長い歴史を持つ岐阜の路面電車の全面廃止。岐阜の路面電車の廃止は、ある意味で、名鉄の一時代の終焉を意味していたのかもしれない。かつて、近鉄に次ぐ私鉄総営業距離第2位の威勢を誇っていた名鉄は、岐阜600V路線の廃止によって、2位の座を東武に譲ることになった。
この後も名鉄では2008年に「パノラマカー」の名で長く愛された7000系が引退、さらには福井鉄道がグループ傘下から離脱するなど、目まぐるしい変化を経験してようやく落ち着きを取り戻し、現在に至る。
 
 
廃線から15年
岐阜市路面電車の廃止から15年、廃止直後から廃止の是非が問われ、様々な議論がなされてきた。しかし、このまま岐阜市の事例を富山市と比較して悪とするには、あまりに短絡的ではないか。今後続くと思われる少子高齢化は、多くの地方都市に大きな影響を与えるに違いない。岐阜市においても、郊外の人口減少が進み、バスを中心とした交通網が最終的には適正な規模になる可能性もある。廃止当時に多くの課題が明らかになったのも事実である。しかし、路面電車廃止の決断が正しかったかどうかは、今後の岐阜市の変化を見ていかなければ分からないだろう。
今後の岐阜市がどのような変化を遂げるのか、見届けていきたいと思う。