滋賀県人の日記

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【北陸4都駅物語】Vol.3 金沢駅

その駅は、かつてより多くの観光客を迎え入れてきた。有数の観光地の玄関口である。人々は兼六園口の大きな門にカメラを向け、同行者と共にシャッターを切る。どこにでもある観光地の光景である。
 
金沢駅もまた、他の北陸3県の例に漏れず、高架駅である。高架駅完成は1990年と北陸4都の中では最も早かった。金沢は、長く日本海ルートの要であった。西からは特急サンダーバードしらさぎが、東からは特急北越はくたかが乗り入れる「特急街道」である北陸本線の結節点であった。
 
そんな金沢駅のホームは、雪害対策のためホーム全体が屋根で覆われているが、切欠ホームの4番線のみ、屋根がついていない。これはかつて非電化であった七尾線で運行されていた気動車の排ガス対策の名残である。七尾線は1991年に和倉温泉まで直流電化されたが、交流電化の北陸本線にも乗り入れるため、七尾線用の交直流電車が用意された。電化工事が行われなかった和倉温泉〜輪島間はのと鉄道に移管された。会社境界は和倉温泉であるが、普通列車七尾駅で運行形態が分かれており、七尾〜和倉温泉間の普通列車のと鉄道が運行している。JRの普通列車413系415系が使用されているが、老朽化が進行しているため、2020年から521系が導入され、順次置き換えられる予定となっている。

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屋根がない金沢駅4番線ホーム
東京、大阪双方からの観光客を受け入れ、ターミナルとして栄えてきた金沢駅に、北陸新幹線が開業するというニュースが舞い降りてきたのは、2000年代初頭のこと。さらに、北陸新幹線敦賀まで延伸するまでの間、北陸新幹線の終着駅になることになったのである。
かつて東京から北陸方面へ列車で向かう場合、上越新幹線で越後湯沢まで向かい、越後湯沢で特急はくたかに乗り換える必要があった。特急はくたか北越急行線を在来線最速の時速160km/hで駆け抜け、東京北陸間のアクセス列車として重宝されたが、それでも1回の乗り換えと4時間弱の所要時間を要し、とても便利とは言いにくいものであった。それだけに、北陸新幹線の開業は北陸民にとって悲願であった。
2005年には、北陸新幹線開業を見越して駅前整備を行い、東口に「もてなしドーム」と呼ばれるガラスドームと木製の「鼓門」が完成した。在来線の一大ターミナルとして、そして来たる新幹線のターミナル駅として、申し分ないほどの出来だった。あの立派な金沢の駅舎には、新幹線を長く待ち望んだ市民の期待が込められているのだ。

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東京駅の発車標。新幹線の開業は東京北陸間のアクセスを劇的に向上させた。
 
2015年、北陸民がかねてより待ち望んでいた北陸新幹線が開業し、東京からのアクセスが改善されてからもなお、金沢への追い風が止まることはなかった。富山では、並行在来線の経営移管により、運行範囲が縮小され、サンダーバードが乗り入れなくなった。結果として、富山東京間のアクセスは飛躍的に向上したのに対して、富山大阪間のアクセス性は低下してしまった。一方で金沢は新幹線の終着駅として、新幹線・在来線特急の乗り換え拠点の地位を得ただけでなく、さらにインバウンド観光客の需要も相まって、空前の観光ブームを迎え、かつてないほどの繁栄を謳歌することになった。金沢にとって、新幹線の開業はまさに「鬼に金棒」であった。

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北陸新幹線開業後、サンダーバードは全て金沢発着に変更された。
 
石川県の隣県である富山、そして福井では路面電車が現役であるが、実は金沢にも路面電車が走っていた。北陸鉄道金沢市内線と呼ばれるその路面電車は1919年に開業したが、戦前から利用客が伸び悩み、戦時中には資材不足のため運行が制限されるなど、厳しい経営状況が続いていた。
戦後になってようやく設備の近代化を進めたものの、急速に路線網を拡大していた自社グループの路線バスに立場を奪われていく。さらに自動車交通の進展により道路の混雑が悪化、路面電車は低速運転を強いられて特性を生かすことができず、やがて始まった道路整備事業で土地を供出する形で路線網は縮小の一途を辿っていく。最終的には1965年のブレーキ故障による暴走事故が金沢市内線に引導を渡す事になった。金沢市内線は路線バスに置き換えられる形で1967年に全線廃止。今から実に50年以上前の出来事であった。その後、金沢は全国的なモータリゼーションの波を受け、自動車社会へと変容していく。

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北鉄バス金沢市内の主要な移動手段の一つである
以上の経緯から、金沢はバスが市内移動の中心である。同じく観光都市である点や、観光客輸送がバス中心である点、駅舎のデザインもあって、どうしても京都を連想してしまうのは、私だけであろうか。京都と違い、道路は広く整備されているので、京都で問題となっているような観光公害を心配する必要はない。京都と違う点は、豪雪地帯である点だ。そして、豪雪地帯でバス輸送が発達している北陸の都市といえば、新潟が挙げられる。新潟は観光都市ではないが、バスの路線網が発展している。さらに新潟と金沢はどちらも新幹線の終着駅である。
 
某月曜深夜の番組でも「金沢vs新潟」の対決企画が行われていたが、実は人口、面積、人口密度共に新潟の方が金沢に勝っている。にも関わらず、知名度や人気の高さを感じるのは金沢である。金沢は小さい町ではあるが、観光地が多いため、長く観光産業を中心としてきた。これこそが市内に観光地を持たない新潟との違いであった。昭和の時代で既に上越新幹線が開業していた新潟は、東京に程よく近い地方都市としての性格を持ち、首都圏の影響を受けながらも、独自に発展してきた。一方で東京という大都市が持つ魅力は、時に地方の若者流出という副作用を地方都市にもたらす。この副作用をうまく対処することが、地方都市の発展の鍵と言えるだろう。
 
市内の観光地だけでなく、駅高架化のタイミング、そして新幹線の開業、開業後も変わらぬアクセス性など、金沢は今まで多くの幸運に恵まれてきた。だが2020年、感染症の世界的な流行によって金沢の観光産業は大きな打撃を受けることになってしまった。今まで観光地として多くの人々を迎え入れてきた金沢が、また多くの人で溢れかえるその日がやってくることを、今はただ願うのみである。

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光都市金沢の今後はどうなるのだろうか。