滋賀県人の日記

書きたい事を書いていくだけのブログです。旅行の記録とか思い出とか。

ノースウエスト航空の話(2/2)

 アライアンス再編と経営統合
スカイチームに加盟した旧ウイングス・アライアンスメンバーは、それぞれ他社と統合の道を歩み始める。まず2005年にKLMとエールフランス持株会社方式での経営統合が行われ、マイレージプログラムも統一された。そして2008年、ノースウエスト航空も同じスカイチームに加盟しているデルタ航空との合併を決定する。ノースウエスト航空が持つアジア太平洋路線とデルタ航空が持つ中南米ネットワークを合わせることにより、より広いネットワークの形成を期待したことによるものである。これまで提携してきたエールフランスKLMとも引き続き関係を強化し、スカイチームとして大西洋と太平洋をカバーする狙いがあった。

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かつてノースウエスト航空と提携を行なっていたKLMオランダ航空は、

2004年にエールフランス経営統合を行った

21世紀に入り、航空業界ではアライアンス同士の競合が始まっていた。複数あったアメリカの航空会社もアライアンス競争の渦中で次第に統合、消滅の一途を辿っていくことになる。かつてのウイングス・アライアンスの一員であり、ノースウエスト航空と提携していたコンチネンタル航空スカイチームを離脱し、スターアライアンスメンバーのユナイテッド航空と合併した。またUSエアウェイズも、ワンワールドメンバーのアメリカン航空と合併するためスターアライアンスを離脱した。
 
こうして2020年現在、アメリカの主要航空会社は3社に統一され、スターアライアンスユナイテッド航空ワンワールドアメリカン航空スカイチームデルタ航空、のように各社とも異なるアライアンスに加盟し、それぞれのアライアンスの性格を生かした戦略を取っている。
 
 
筆者はノースウエスト航空に4回搭乗したことがある。往復の搭乗を2回とカウントすれば、8回搭乗している。初めて搭乗したのは2005年、私が利用した関空ホノルル線にはなんとDC-10が充当されていた。もちろん当時の私は機種を判別できなかったが、当時の記憶を元に後々調べてみるとDC-10であった、というわけである。またその翌年にノースウエスト航空を利用した際は747のクラシックであった。というのも、螺旋状の階段があり、上に行きたいと親に言った覚えがあるからだ。
最後に搭乗したのは2007年、機材はA330であった。2007年当時のA330といえば最新機材であり、古い機材でも製造されてから5年程度しか経過していなかったはずである。今までの機材とは違って座席にモニターが付いており、驚いたのを覚えている。幼い頃にはよく飛行機に乗っていたが、そのほとんどがノースウエスト航空であったため、ノースウエスト航空は私の思い出の航空会社と言っても過言ではない。幼少期で好き嫌いが多かったため、そこまで機内食を美味しいと思えず、半分ほど残してしまったこと。緑茶を頼みたくて「Tea please」と言ってしまい紅茶が出てきて困惑したこと、男性CAからバッジとトランプを貰ったこと、すべてがいい思い出である。今ではあの機内食に少し恋しさすら感じる。
 
次に国際線を利用したのは、2010年にデルタ航空を利用した時のこと。機材は747-400であった。ノースウエスト時代も機材は古かったのだが、今回は運悪く自分の席のリクライニングが壊れており、何時間も垂直の姿勢で座っていて疲れたためか、現在でもあまりデルタにいい印象を抱いていなかったりする。ただ最近のデルタの機内食はいいという話も聞くので、乗りたい気持ちも少しある。その後、2019年にANAの国内線787に登場するまでしばらく飛行機に乗る機会がなかった。国内線でも飛行機に乗るのは楽しいものだが、これまでに長距離の国際線に乗り慣れているため、国内線ではどうしても物足りなさを感じてしまう。
 
双発機の性能が飛躍的に向上した今となっては、4発機がもはや時代遅れとなっており、当たり前のようにジャンボ機が飛び交っていた日本でもその姿を見る機会は激減してしまった。さらに2020年の感染症流行による航空需要の急減は、4発機を運航している事業者に早期退役の決断をもたらした。

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数少ないA380オペレーターの一つ、タイ国際航空

コロナウイルスの世界的流行による航空需要減で経営破綻に追い込まれた

 
今となっては、近距離国際線も小型機による多頻度運航に切り替えられ、海外旅行がより身近なものへと変容した。しかし私にとっては国際線といえば大型機であり、大型機に乗るときの独特の高揚感が感じられなくなるというのは、少し寂しく感じてしまう。
関西空港LCCの小型機が飛び交っている様子を見ていると、かつての大量輸送時代の終焉を改めて実感すると共に、あの時感じた旅情を懐かしんで寂しく思ったりするのである。

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夕暮れの関西国際空港で出発に備える飛行機たち

国際線の需要復活はいつになるのだろうか

 
 
 

ノースウエスト航空の話(1/2)

2020年現在、旅客輸送を行う航空会社によって構成される航空連合、いわゆるアライアンスは主に3つある。一つはANAが加盟しているスターアライアンス、そしてもう一つはJALが加盟しているワンワールド、そしてもう一つ、日本とは縁の浅いスカイチームである。だが、そんなスカイチームにも、日本人には馴染み深い航空会社があった。戦後以降日本と深い関わりを持ち、成田に拠点を置いていたノースウエスト航空である。現在ノースウエスト航空デルタ航空に合併され、消滅している。

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成田空港にあるデルタ航空の作業用車

元々はノースウエスト航空保有だったらしく、ロゴが消された跡が見える

 
先日、スカイチームメンバーであるデルタ航空が成田から撤退、設備を拡張した羽田へ路線を全て移管させた。スターアライアンスANAワンワールドJALによる実質二強状態であり、立ち入る隙のない日本にスカイチームは活路を見出せず、隣国韓国のスカイチームメンバー大韓航空のお膝元である仁川空港を、アジアのハブ空港として新たに位置付けたためだ。戦後からノースウエスト航空のアジア拠点として繁栄してきた成田の一時代が終わりを告げたと言ってもいいだろう。

www.aviationwire.jp

羽田空港の発着枠拡大に伴い、多くの海外航空会社が羽田へ路線を移管した一方、羽田へ新規就航しつつ既存の成田発着路線を存続させる会社も一定数あった。そんな中、デルタ航空は成田に整備工場を抱えているにも関わらず、大胆にも成田からの定期路線撤退の道を選んだのであった。

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羽田空港を離陸するデルタ航空 A350-900
 
 
ノースウエスト航空と日本の関わり
ノースウエスト航空が日本と関わりを持ち始めたのは戦後すぐのこと。日本航空が日本のナショナルフラッグキャリアとして1951年に誕生したが、設立当初の日本航空ノースウエスト航空から航空機と乗員をリースし、運行をノースウエスト航空に委託していた。
 
その後、ノースウエスト航空は太平洋路線を結ぶ航空会社として発展する。当時の航空機は現在ほど燃費性能に優れておらず、航続距離が短いため、太平洋を直行便で運行することは不可能であった。ノースウエスト航空は以遠権を行使し、日本を中継地とする形でアジア各地へも就航していた。そのため、日米間だけでなく、日本から近隣アジア諸国への移動においてもノースウエスト航空を利用する機会があり、日本において特に知名度が高かったのだ。ノースウエスト航空も成田を重要な運行拠点に位置付け、整備工場や乗務員拠点、運行管理部門までをも備えた第二の運行拠点を成田に設けた。
 
 
大量輸送時代の到来
1970年代には「ジャンボジェット」の愛称で親しまれているボーイング747や、3発ジェット機のDC-10を導入、1980年代にはボーイング747-400型をローンチカスタマーとして導入した。747-400型は従来の747型よりも機械が進化したことで、航空機関士を除いた2人乗務が可能となっており、後に多くの航空会社が導入することになる。747-400を中心に、世界の空は大量輸送時代を迎える。ノースウエストが拠点を置く成田でも、旅客型や貨物型など、多くの747が飛来していた。
 
 
ウイングス・アライアンス結成とKLMオランダ航空との提携
そんな中、ノースウエスト航空はKLMオランダ航空と提携を開始する。元々両社ともハブ機能に特化した空港を中心に路線網を作り上げる形態をとっており、両社間で設備を共有したり、株式を持ち合う体制を敷き、成功を収めた。この提携は後に航空会社による航空連合結成の先駆けとなり、ノースウエスト航空が出資していたコンチネンタル航空も加わって、航空連合「ウイングス・アライアンス」結成の動きが高まった。しかしウイングス・アライアンスへ4番目に加盟したアリタリア航空がハブ機能をうまく機能させることが出来ず、結果的にアリタリア航空はウイングス・アライアンスを脱退してスカイチームに加盟した。この時既に世界的なアライアンス結成の動きがあり、複数のメンバーを持つ大手アライアンスが3つも設立されていた。結果的に大手から外れる形になったウイングス・アライアンスは、ノースウエスト、KLM、コンチネンタル共にスカイチームに加盟することになった。2004年のことである。

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成田空港に着陸したアリタリア航空

手前に映るアエロフロート・ロシア航空も2006年にスカイチームへ加盟した

 
(続く)
 
 
 

【北陸4都駅物語】Vol.2 富山駅

富山駅JR西日本、あいの風とやま鉄道の管轄する駅である。北陸新幹線JR西日本が、在来線をあいの風とやま鉄道が管理している。また、高架下には富山地鉄市内線の路面電車の停留所がある。
 
かつて東京から富山へアクセスするには、上越新幹線で越後湯沢まで向かい、越後湯沢で特急はくたかに乗り換える必要があった。一方、特急サンダーバードが大阪まで直通運転を行なっており、この利便性から富山と大阪を移動する者も多かった。しかし、北陸新幹線が開業したことで状況は一変した。東京から新幹線で1本で結ばれるようになり、東京への利便性が一気に向上した。それと引き換えに、北陸新幹線が開業したことで並行在来線第三セクターへ移行、かつて特急街道とまで称されたほど特急列車が「東奔西走」していた北陸本線は、金沢以南にその名を残しこそしたものの、富山県内では完全に地域ローカル路線へと様変わりした。その結果、サンダーバードは金沢発着に変更され、大阪へ向かうには金沢駅で新幹線を乗り換える手間を強いられるようになった。

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「富山行き」のサンダーバードが消滅してから5年が経過した(2013年撮影)
北陸新幹線が開業するまで、富山駅もまた、「特急街道」である北陸本線の重要なターミナルであり、サンダーバードはくたかだけでなく、北越や、寝台特急日本海トワイライトエクスプレスのような、日本海側の主要特急列車の停車駅でもあった。かつては富山地方鉄道線との連絡線があり、この連絡線を通じて681系が、「スーパー雷鳥」として富山地方鉄道線の宇奈月温泉立山駅まで直通運転を実施していた。利用客低迷や、地鉄側の設備容量不足から廃止されてしまったが、以前のJRは他社への直通運転や、臨時列車の運行にも積極的であった。現在は富山駅に681系が入線しなくなっただけでなく、駅の高架化により連絡線自体も撤去されたため、この列車の復活は幻のものとなった。
 
特急街道の主要駅として、北陸本線と共に栄えたかつての富山駅もまた、新潟駅と同様、国鉄の雰囲気を多く残す駅舎であった。現在も国鉄型駅舎が現役である新潟と違った点は、北陸新幹線の開業に合わせて、在来線を高架化し、線路を挟んで南北に分断されていた駅前を一体開発する計画をいち早く発表した点だろう。
 
2015年3月、北陸の住民が待ち望んだ北陸新幹線がついに開業すると、同年4月にはまず金沢方面のホームが高架化された。引き続き高架化が進められ、2019年には魚津方面の高架化も完了、これにより在来線の完全高架化が完了した。そして2020年3月、旧在来線の設備撤去と駅北口の整備が完了し、富山地方鉄道市内線と富山港線の直通運転が開始された。

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北陸新幹線の開業により、富山駅は見違えるほど立派な駅となった
 
ちなみに、市内線と富山港線の直通運転開始に先立って、富山港線を運営していた富山ライトレール富山地方鉄道へと吸収合併された。実は、富山港線は戦時買収によって1943年に国営化されるまで富山地方鉄道によって運営されていた。つまり、富山港線富山地鉄国鉄JR西日本→(数ヶ月の廃止期間)→富山ライトレールといった変遷で、廃線の危機をも乗り越えて、実に77年ぶりに富山地鉄の運営に戻ったのである。
 
私が初めて富山駅に降り立ったのは2013年3月、当時は北陸新幹線の工事真っ盛りであり、新駅舎用地ではまだ更地が目立つ時期であった。現在の富山駅よりもやや西側に設けられていた当時の仮設駅舎は、現在の立派な駅舎からは想像もつかないほどの質素さで(仮設なので当然ではあるが)、こぢんまりとした駅前広場にもまた驚いたものである。改札内もまた工事が進んでおり、南口から入ると、工事の防音柵に囲まれた長い通路を歩いてようやく在来線ホームにたどり着くような形であった。あの工事柵で覆われた長い通路は、現在の新幹線ホーム下にあたるのだろうか。この時富山市の計画を知らず、富山市を訪れたことすらなかった私にとって、防音柵に囲われたあの薄暗い通路を歩きながら、新しく生まれ変わる富山駅の全貌を想像できる訳もなかった。

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地上ホームで発車を待つ高山線猪谷行き(2013年撮影)

写真左側の防音柵の向こうでは、北陸新幹線と在来線の高架ホームの建設が進められていた

2016年、富山を再訪する機会があった。駅に降り立って驚いた。いや、駅前に立って驚いたというべきであろうか。大きなガラス張りの駅舎を構え、バスターミナルの横を路面電車が発着していく光景は、3年前に見た時に感じた「質素」という印象とは大きく異なるものであった。それは鉄道ファンや都市工学に異様に詳しい識者たちが自分たちの理想の都市世界を語った時に出てくるような、理想世界そのものであったのだ。
 
地方都市の衰退が叫ばれる現代、富山市モータリゼーションを前提とするまちづくりからいち早く脱却し、一足早く公共交通機関の整備に取り組んだ。そして市内路面電車の整備、新幹線開業という追い風に上手く乗って、富山駅は誰もが望んでいた地方都市のあり方そのものに大きく生まれ変わった。富山の成功例は、新幹線開業という運要素に恵まれたのも事実であるが、当時の富山市の鋭い先見の明によるものであるのもまた事実である。富山市の業績は、ほぼ同時期に、岐阜市が逆のことー「路面電車の全線廃止」ーを断行していたことを考えれば、決して大袈裟であるとは言えない。
 
同様に新幹線開業を見越して駅前整備を行った金沢と違う点は、金沢が兼六園21世紀美術館のような観光地を市内に擁しているのに対し、富山県の有名観光地は立山、黒部のような郊外にあり、富山市自体は観光都市ではない、という点である。金沢市のように観光に依存せず、そもそも金沢市と経済規模が大きく異なる富山市とを並べて語るのはナンセンスである。富山市は観光産業に頼ることなく、自らが元々持ち合わせていた交通インフラを遺憾無く発揮するような政策を立案し、そして見事実行して見せたのだ。
 
富山市が総力を挙げて行ったコンパクトシティ政策が、路面電車環状線化に繋がり、結果として富山市中心部のアクセス向上をもたらした。北陸新幹線工事着工から早20年、近年スタンダードになりつつあるまちづくり方針をいち早く実践した、富山市の「元祖まちづくり計画」のシナリオは、現在フィナーレを迎えつつある。

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新幹線駅の高架下から出発する路面電車

「近未来の地方都市」を思わせる光景である

 
富山駅のガラス張りのあの駅舎が、心無しか立派に見えるのは、新たな地方都市の交通のあり方を、身を以て示した富山市の意地の現れであろうか。
 
 

【北陸4都駅物語】Vol.1 新潟駅

突然だが、皆さんは北陸の4都市に行ったことはあるだろうか。
あくまで私自身の定義であるが、北陸4都市とは新潟、富山、金沢、福井を指す。
この4都市は、日本海側、雪国の玄関口として、それぞれ独自の歴史、個性を持っている。
ここでは、そんな4県の各駅をご紹介していきたいと思う。
 
新潟駅は北陸4都で唯一のJR東日本管轄の駅である。日本海側最大の都市である新潟の玄関口としての役割を果たす新潟駅は、上越新幹線の終着駅であるほか、在来線は越後線信越本線白新線の3線が乗り入れ、かつては特急北越や大阪からの急行きたぐになども発着するなど、日本海側最大の都市の名に恥じないような、日本海側の一大ターミナルとしての歴史を誇っている。

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新潟駅万代口駅舎

趣のある駅舎だが、駅の高架化にあわせて姿を消す

 
元々の新潟駅は4面7線であり、万代口直結の相対式ホームである1番線を除いて、2〜7番線は島式ホームで構成されていた。福井、金沢、富山の北陸3都市駅が次々に高架化、近代化を果たしていく中、国鉄時代の面影を多く残していたこの駅も、2018年にようやく一部在来線の高架化が行われた。
 
2011年より高架化工事が本格化し、将来の高架駅の用地にあたる5〜7番線を封鎖、代替として1番線の東端に繋がる1面2線の島式終端ホームが設けられ、8番線、9番線として使用を開始した。この8〜9番線は構造上、越後線方面の線路とは繋がっていないため、白新線信越本線方面の列車が使用している。また新潟駅の高架化により、新潟駅の収容能力が低下することが決定していたため、白山駅を2面3線化する工事も行われた。
 
高架化工事期間中、4番線は島式ホームの半分以上が工事用の防音柵で遮られており、ホーム幅員が減少していた。列車を待つ乗客が狭いホームに溢れるなか列車を入線させるのは、流石に危険とJR側も判断したのか、このホームを主に新潟終着の列車や、入換等の回送列車といった列車に割り当てて、乗客が狭いホームに留まることがないようにしていたようだ。新潟終着の列車であれば、乗客の流れこそ悪いかもしれないが、乗客を下ろした列車が発車しない限り、接触事故や転落事故が発生する可能性も無いし、そもそも幸運にも回送列車をすぐ発車させなければならないほど新潟駅に余裕がないわけではなかったため、この判断に至ったと推測する。

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新潟駅4番線に入線する回送列車

ホームは狭く、列車待ちをするスペースはほとんどない

2018年4月の一部高架化により地上4番線は消滅している

だがそもそもなぜ4番線のホーム幅員をこれほどまで狭くしなければいけなかったのか。理由は後述する。
 
そして、国鉄時代の趣を多く残すこの駅は、裏を返せば、近代化、バリアフリー化が遅れていた駅でもあった。エスカレーターやエレベーターが設置されたのは2010年代であり、ホーム上では、発車標は愚か自動放送すらなく、列車の接近ごとに駅員による肉声放送が行われていた。と言うのも、越後線信越本線白新線の3線の列車が、8〜9番線を除くどのホームにも入線可能であり、方面別にホームの振り分けを行っていないため、結果としてホーム運用が複雑化し、自動放送のシステムが対応できないためである。高架化された現在も、ホームの運用形態は変わっていないため、発車メロディー以外の自動放送は導入されていない。だが発車標はLCDの立派なものが導入されており、こちらはしっかり運用できているようだ。技術進歩が著しい今、将来の自動放送導入も少し期待してみてもいいかもしれない。
 
そんな新潟駅在来線ホームも、2018年4月に高架ホームへ移行した。高架の5番線は新幹線の11番線と隣接しており、羽越本線からの特急いなほの乗客が、ホーム上の乗り換え改札を通って新幹線へ乗り換えできるようになった。
 
そんな新潟駅の表玄関といえばやはり万代口であろう。万代口側の駅舎は国鉄時代からのもので、駅舎の上層階部には新潟支社が入っている。万代口横にあるスイッチバック式のバスターミナルからは、多くのバスがひっきりなしに発着している。2015年にBRTの「萬代橋ライン」が開業すると、駅前に連節バスも乗り入れるようになったが、こちらはバスターミナル横の専用乗り場から発着する。高架化工事が完了すると、南北のバスターミナルを統合、整備し、わかりやすいバス乗り場へと生まれ変わる予定である。
 
この万代口の駅舎であるが、駅の北側を万代口の駅舎に、南側を新幹線の高架に阻まれていることにより、在来線部分の土地にはあまり余裕がない。結果として在来線の高架化工事の際に、先述のようなホーム幅ギリギリまで工事柵を立てるといった苦労を強いられたのではないかと思われる。JR東日本新潟支社をはじめ多くのテナントを擁している万代口駅舎をすぐに解体するわけにもいかず、まして上越新幹線の高架ホームを壊すなんてことも不可能である。そう考えてみると8〜9番線の設置も苦肉の策であったと言えるだろう。新潟駅の高架化工事は、用地の制約を受けながらもギリギリの状態で工事が進められているのである。
 
私が新潟駅に初めて降り立ったのは2013年3月末、眠い目を擦りながら、仮設の8番線に到着したムーンライトえちごから降り立った時であった。3月末といえども、東北地方の3月はまだまだ寒く、雪が舞っていた。MLえちごから降り立った人々は、それぞれ目的の列車に向かって足を進めていた。私もまた1番線に停車している快速村上行き(18キッパーからは「村上快速」と呼ばれていた)に乗り換え、羽越本線を北上したのであった。かつての新潟駅は間違いなく、東京方面、富山方面、山形方面へと3方に分岐する一大ターミナルであった。
 

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「村上快速」と呼ばれた快速村上行き(2013年3月撮影)

当時はE127系での運行であった。

写真のV8編成は北陸新幹線開業後、第三セクターへ譲渡されている。

村上快速は、新潟から白新・羽越線方面の始発列車であり、同線唯一の快速列車であった。新潟駅4:55発というダイヤ設定にも関わらず、MLえちごと接続が良かったため、18切符シーズンともなれば同列車から乗り換えた18キッパーたちでなかなかの乗車率を誇っていた。筆者が乗車した2013年にはロングシートE127系で運行されており、睡眠不足の18キッパー達にとっては有難くない存在であったはずだが、そんなE127系も一部を除いて北陸新幹線開業により発足した第三セクターに譲渡され、現在の村上快速はE129系で運転されているようだ。もっとも、MLえちごが過去の列車となった今となっては、18キッパーにはもうどうでもいいことではあるが…。

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新宿駅で出発を待つ485系K1編成(2013年3月撮影)

ムーンライトえちご」の列車名も過去のものになってしまった

 
日本海側の一大ターミナルとして華やかな歴史を歩んできた新潟駅。北陸、信越本線の特急列車が北陸新幹線にその役目を譲ってからは、北陸4県の中でも高架化、近代化の面で一歩遅れを取ってきた。ただ、まちづくり政策の優等生である富山や、観光地として最盛期真っ只中である金沢と比較すれば、劣っているように見えるのは必然的なもので、むしろかつての日本海側の一台ターミナルとして栄えた歴史を鑑みれば、その古さは決して恥ずべきものではない。だが現在の新潟駅には、583系の急行きたぐにも、485系ムーンライトえちごの姿ももうない。かつての在来線一大ターミナルとして栄えた新潟駅の歴史は終わりつつある。新幹線開業の祝福ムードの旋風に乗りながら、繁栄を謳歌する北陸3都を尻目に、新潟は無風の中、変わろうとしている。
 
現在進む高架化事業の完了は、新潟駅の栄光の歴史からの転換を意味する。一大ターミナルのシンボルとして、多くの旅立ちを送り出し、また多くの旅人を迎え入れてきた万代口駅舎も、高架化関連事業で姿を消す。雪が降りしきる中、駅員の肉声による乗り換え案内を聞きながら、乗り換え列車の待つホームへと急ぐ...そんなどこか懐かしさを覚えるような新潟駅の一コマは、もう思い出の中にしかないのだ。

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かつての国鉄を思わせる組み合わせ

115系の引退も近い

 
高架化事業完了、すなわちターミナル駅としての新たな歴史の幕開けを夢見ながら、今日も新潟駅では工事が続く。

2020年前半期総括(らしきもの)

こんにちは。滋賀県人です。ご無沙汰しております。
 
新年度早々緊急事態宣言が発令され、旅行はおろか日常的な外出すら困難であった4月から、もうあっという間に8月になりました。2020年ももう後半に差し掛かったわけですが、私が今まで何をしていたかをダラダラと書き連ねていきたいと思います。
 
2020年2月
正体不明の新型ウイルスが、中国で猛威を振るっていることを知る。多くの死者を出している中、中国の武漢が都市封鎖される。在中邦人を救出するため、ANAが日本政府からチャーター便を受託し、国内線の767を武漢へ飛ばした。羽田へ帰還した767を追いかけるマスメディアの生中継を見ていると、機内で新型ウイルスの症状を発症している乗客がいるという速報が入った。世間では「ついに来たか」という雰囲気が漂っていたように思う。まさかこの後、気まぐれな外出すらかなわない日常がやってくるとは思わなかった。
 
2020年3月末
感染症が国内でも流行の兆しを見せ、人々の生活にだんだん変化が現れたこの時期。私はというと仕事に明け暮れていた。そして4月から始まる大学の時間割を組んでいた。仕事の時間の兼ね合いも考えながら、1限の授業を減らしていたりしたが、今考えれば杞憂であった。この時期から既に対面授業が絶望的であるという噂が、大学界隈でまことしやかに囁かれていたからである。自分がこの噂を鵜呑みにしなかったのは、やはり心のどこかで感染症拡大の危機から目を逸らしていたからなのかもしれない。今となってはどういうつもりで時間割を組んでいたのか分からないが、少なくとも当時の自分が数週間後に起こる状況ー緊急事態宣言の発令ーを予測できていなかったのは間違いない。
 
2020年4月6日
大学の春学期開講。ただやはり対面での授業は厳しく、開講1週間前ごろにweb上での授業実施がアナウンスされた。しかし1限目の時間になると生徒のアクセスが集中したことで、学習システムのサーバーがダウンし、授業が正常に実施できなくなるトラブルが発生した。そもそもサーバーダウンの可能性は開講前の発表時点で指摘されていたが、大学側は「仕様上は問題ない」としていた。生徒側は大学側の声明を半信半疑に聞いていたが、案の定予想通りになった模様。ちなみに私は2限から講義があったが、リアルタイムの講義ではなかったため、起きたのは昼過ぎであり、私からすれば完全に「対岸の火事」であった。そもそも普段から大学の学習は大学内で完結させるようにしていたため、自宅での学習に慣れておらず、ただでさえ長期休暇明けであったため、この時点での学習に対する意欲はどん底であった。
 
2020年4月7日
4月以降、政府が緊急の対応をするのではないかと噂されていた中、この日の夕方ついに政府から「緊急事態宣言」が発令される。当時私は仕事中で、仕事を終えた時に同期からの言葉で初めて発令を知った。仕事は翌日から休業となるが、休業に向けた手伝いのため、翌日の出勤をもって休業となる。金欠まっしぐらである。
 
2020年4月8日
緊急事態宣言の発令を受けて大学がさらに情報を発表。生徒講師問わず大学構内への立ち入りが制限され、授業が実施できないため無期限の授業休止を発表した。休止期間にサーバー強化を図り、再開後のweb授業に備えるという。ちなみにこの時点で緊急事態宣言がいつまで続くかは不明であり、誰もが未知のウイルスに対する恐怖と今後に対する不安に怯えていたように思われる。それにしても、本当にやることが無くなってしまった。
 
午後に最後の出勤。普段であれば混雑していた列車の車内が閑散としていたほか、列車の窓が全て開けられていた。少し前まで、インバウンドの外国人で車内が賑やかであったことを考えると、何とも異様な光景であった。買い物客で賑わっていた街中の商店街では、すべてシャッターが閉まっており、当たり前だった日常が急速に消えつつあると感じた。
 
緊急事態宣言中
途中まで読んでいた本を読んだり、部屋の整理整頓をする。だがそれでも限界がきた。何もすることがない。時間を無駄に過ごしていたような気がする。ただ、そんな中でも毎日2時間ほど英語の勉強をするようにしていたので、それだけが唯一の気晴らしだった。毎日のルーティンが意外と生活リズムを整えるのに役立っているのだなと感じた。
 
2020年5月中旬
バイトが再開するとの連絡が入る。髪を4ヶ月近く切っていなかったので切りに行くことに。田舎なのでただでさえ人気が少ないが、この時はいつにも増して少なかった。
 
2020年5月22日
職場の再開準備を手伝うため、県外へ。県境を跨ぐのは一ヶ月ぶりである。京都駅へ立ち寄ったが、やはり人影はまばらであった。待ち合わせの場所として、かつては多くの人で賑わった西口改札前の広場はもぬけの殻であり、今この世の中で起こっていることの重大さを改めて実感した。
 
 
緊急事態宣言解除後、私は大学からweb上で指示される課題をこなし、一方で休業期間中の損失を補うべく仕事に専念した。本来大学の勉強というのは自主的にやるものだが、仕事に従事したい気持ちが強く、あまり気が乗らなかったというのが本音...というより言い訳である。だだ一つ、自分が感じた変化として、仕事は実際に人と対面する形式であったのに対し、大学はwebであり、周辺環境から受ける刺激というものがなかったことが挙げられる。このような周辺環境からの刺激の有無というのもまた、モチベーションに大きく影響することが改めてわかった。そもそもこれまでの日本人が周りの目を気にして生活していただけに、テレワークのような社会環境から隔離された生活様式が、日本社会で一定の理解を得て普及するにはしばらく時間がかかるかもしれない。
...とか、カッコつけて言ってみましたが、まあ結局は個人の意思の問題のような気がしなくも無い…。難しいですね。
 
それにしても個人的に驚きだったのは、緊急事態宣言中の支出が激減したこと。引きこもると物欲も消え失せたようで、普段よりもずば抜けてクレジットカードの引き落とし金額が少なかった。今思い返せばAmazonを覗くこともほとんどなかったが、身体に金欠という感覚が染みつくほど経済的な危機感を抱いていたのだろうか。いずれにせよ、家に引きこもりすぎるのも良くないですね。本当に気が滅入る。人の多い都会の方だと厳しいのかもしれませんが、心身の健康のために、外に出る用事がなくとも、毎日できるだけ外に出て軽く運動をした方が良さそうです。
 
文才はないですが、ボチボチ更新していきたいと思います。それでは。
 

ANAが国内線機材を更新へ

こんばんは、お久しぶりです。
 
以前ブログでも搭乗記として紹介した、ANAの旅客型機としては最古参であった767-300(JA8669)が、2月末に運用を離脱、役目を終え離日したようです。搭乗した当時は、何も置き換え計画が発表されていなかったので、しばらくは飛び続けるものと思っていましたが、3月に入ってANAが発表した国内線の機材更新計画と何か関係があるのかもしれません。
 
ANAの発表によると、国内線仕様の787-10を11機確定発注し、2022年度から2024年度にかけて導入予定。これらは全て国内線の777の後継機にあたるとのこと。ANAとしては、国内線の主力機材を787に据えることで運用効率性を高める狙いがあるようです。
 
以上を踏まえると、機体の大きさから判断して、787-10が777-200の置き換えにあたると考えて良さそうです。777の初期型は導入が2000年初頭であり、置き換えには妥当な年度であると言えます。ただ、JA715Aが最近になって座席をリニューアルした点や、787の納入遅れにより急遽納入された機齢の浅い5機の777-200ER(JA741A~JA745A)がいることから、今回の置き換えはあくまで初期の777を対象にしたものであり、全ての777-200を置き換えるわけではないと思われます。
 
ただ、個人的には国内線で活躍する7機の777-300(JA751A~JA757A)の置き換えがどうなるのか気になるところです。これらも納入が2000年初頭であり、置き換えが計画されていてもおかしくないはずですが、あの大きさと収容力は787-10でも到底敵わないでしょう。個人的には国内線仕様の777xを導入して置き換えるのではないかと推測していたりします。
 
767についてはしばらく安泰でしょう。1990年代後半に導入された2機(JA8342,JA8971)は流石に置き換えられそうな気がしますが、その他は導入が2002年以降であり、前述の777-200よりは新しいですし、そもそも787の納入遅れで急遽納入されたウイングレット付きの767-300ER(JA619A~JA627A,計9機)がアジア向けの国際線で活躍しています。しばらくは国内線で767の活躍を見ることができそうです。
 
小型機はどうなるんでしょうか…。しばらくは元バニラエアの3機で退役する737-500の穴埋めを図るようですが、これらのリース期限も実はそう長くないんだとか。三菱の度重なる納入延期で、ANAの機材更新計画は大きく狂っています。
ただ、昨今の新型ウイルス感染症流行によりアジア近距離国際線が軒並み運休し、機材(767-300ERやA320neoなど)が余っている為、これらの機材を国内線運用に入れて対応しているようです。ここしばらくは機材繰りに悩まされることは無くなるでしょうが、今度は運休による利用客の減少に悩まされています...。
 
JALが大型機をA350、中型機を787、小型機を737、と機材を統一しているのに比べると、どうしても機材がとっ散らかっているように見えてしまうANAですが、かくいうJALも倒産前はたくさんの機材を所有していましたし、国内線小型機が737-800(737-700も一部いますが)、国際線は中型機が787、大型機が777-300ER、と統一できているだけまだマシと捉えるべきでしょうか。そもそもボーイング社、三菱の一連のトラブルを見ていても、ANAはやはり「運が悪い」のかもしれません…。
 
それでは。

お久しぶりです。現状報告。

こんにちは。長らくブログを休止していましたが、あまり長期にわたって放置していると一生ブログなんて更新しなくなるだろうなと思ったので、少しでもいいから更新していこうと考え、この記事を書いています。
 
2月から大学の春休みが始まり、同時に仕事も落ち着いてきたので、ボチボチ旅行にでも…と考えていた矢先。
 
最近世間を騒がせているあのウイルスが出現しました。
 
ただ、普段はどんな状況であろうとも外出しようとする私が、どういうわけか、仕事以外で外出することはほとんど無く、家のお布団で惰眠を貪る毎日を過ごしていました。
 
なぜ私が外出しないのか、理由は単純です。
お金がないのです。
 
今の仕事で、ある程度の稼ぎはあるのですが、今使っているMacBook Airの買い替えや、自動車免許の費用など、これからの支出に備えて貯金をする必要があり、結果としてあまり旅行に行けないのです…。
 
そして私は例のウイルス流行をいいことに、あっという間に引きこもりに変わってしまいました。あーあ。
 
でも、毎日ぐーたら過ごすなら、せめてブログくらいは続けておきたい。というわけでできるだけブログ更新はしていくつもりです。
 
話題のネタがあるかどうかは分かりませんが…。今のところ、過去の旅行記録でも作っていこうかなあと考えています。
 
まずは今回のコロナウイルス流行が、一刻も早く収束することを願って止みません。
みんなが何の心配もなく旅行に出ることのできる、そんな日常が早く戻ってきますように。
それでは。